持てる者が持たざる者の叫びを「政治的正しさ」で断罪すること

 ある大学教授の書いた文章がネット上で問題視されています。きっかけは、とある(兼業の)ジャーナリストの方が、ある地方の大学教授の書かれていたHPを見たことでした。そのジャーナリストの方は科学に関わる様々な問題について発言されている有名な方です。思いやりと利他の精神を持った素晴らしい方で、彼の人間性と高潔な人格を疑う人は日本にいないでしょう。そういった方ですから、彼が批判的にそのHPを紹介したときに、多くの人が彼の意見に同調したのでした。
 そのHPにどのような内容が書かれていたか、それはいわゆる「政治的に正しくない」(ポリティカルにコレクトでない)内容でした。具体的には、「一流の研究者を目指すうえで、結婚することや子供を持つことがマイナスに働く」ということを言っていて、さらに良くないことには、特定の性別を例として出し、そのことを語っていたのでした。ですから、多くの人がその教授の発言を批判し、責める発言を繰り返しています。こういった非難は仕方のないことだと思いますし、そういった批判が出ない方が怖いとは思います。しかし、あまりの集中砲火ぶりに、別な視点からこの話題を論じる必要を感じたのです。

 そもそも、この教授はどのような経緯でこのような発言をするに至ったのでしょうか。ネットで噂話を見る限りですと、渦中の教授は夫婦で研究者をしており、離ればなれの暮らしをされていて、お子様はいらっしゃらないようです。学会でも重責を担っており、公共のために奉仕するお仕事を続けられている方々のようです。そのために、人生で多くのことを諦めてきたように感じます。
 あの文章は、渦中の教授の送ってきたこのような人生から湧き上った言葉だったのではないでしょうか。その言葉は、政治的に正しいものではなかったかもしれません。しかし、彼らは、ある意味で被害者でもあるのです。日本の学術界という、研究以外に多大な仕事量が課せられる空間で、学会の重要な役割(公共の仕事)も果たしつつ、大きな成果を挙げてきた苦労は並大抵のものではなかったことでしょう。彼らがキャリアを積んでいったのは、今以上に実験業務に手間暇がかかった時代であることにも注意が必要です。その中で、歩めたかもしれない人生のある側面を諦めざるを得なかったのではなかったでしょうか。
 一方で、渦中の教授を非難する人の中には、子供を持っている方も多くいるようです。かの教授たちの諦めたことを実現できた人たちは、もちろんたくさんの努力をされてのことと思いますが、一方で、それを可能にした社会的資本があったのではないでしょうか。例えば、配偶者との同居や、近隣に両親がいて助けてくれる、そういった渦中の教授よりも恵まれた環境を得たことは、子供を持ち、子育てができたことに大きく貢献しているのではないでしょうか。今回の一件は、ある意味で、持たざる者が発した叫びを、持てる者が非難しているという見方もできるのです。
 あるとき、「保育園落ちた、日本Xね!」という言葉が流行りました。この言葉が倫理面で正しい発言でないことは誰もがわかります。しかし、少なからぬ人がこの発言に共感したのでした。それは、この言葉を発した人、そしてそれに共感した人が感じた「苦悩」がこの言葉に込められていたからでもあります。
 長い人生の中で人間は様々な思いを抱くことがあります。そして、様々な発言をすることがあります。それは、そこだけを抜き出せば、愚かに見える発言であることも多いでしょう。しかし、その背後には、その人の経験してきた苦悩が隠れています。
 渦中の教授夫妻の抱えた苦悩は、渦中の教授夫妻と同じ経験をした人のみが真に理解できるのかもしれません。その経験から発せられた叫びを、同様の経験をしていない人が責めるのは、酷な気がするのです。例えば、配偶者が専業で家事労働に従事していた人、配偶者が育休を取った人、配偶者が時短勤務をした人、あるいは双方がこういった対応をした人、そういった対応の中で子供を持ちつつキャリアを築くことに成功した人もいるでしょう。その場合、配偶者のキャリアは無傷だったでしょうか(※1)。そうした人たちは、渦中の教授夫妻とは異なる決断をしたといえます。人生を主体的に選び、歩んでいくことは素晴らしいことなのは間違いありません。しかし、違う環境、違う決断、様々な状況があり得ます。政治的正しさを基準に、ある人の人生から出てきた発言を責めることは簡単です。しかし、世の中には多様な人生があり得ます。誰かの叫びを一つの基準でかき消すのではなく、また別な人生からの発言が開陳され、様々な思いが交差し、語り合えたら、そういったことの方が、生産的な気がするのです。
 これは、完全に私の想像になってしまうので、お気を悪くされたら申し訳ないのですが、渦中の教授も、それを責めた人たちも、実は同じ思いを抱いているのかもしれません。渦中の教授は、自分の配偶者がキャリアのために子供をあきらめざるを得なかったこと、そこで十分なサポートができなかったことに負い目があって、自分を納得させたくてあのような文章を書いたのかもしれません。一方で、それを強く責める人たちの中には、配偶者のサポートを代償に子供を持ちつつ自分がキャリアを築いてきたことへの負い目があり、それがあの文章への怒りへと昇華していた人がいたかもしれません。もしかすると、あの文章に強く反応した人たちこそが、渦中の教授と最も分かり合える人たちではないのだろうか、そんなことも思います。これについては完全な想像で語っていることをお詫びします。でも、そういった可能性もあるからこそ、誰も責めたくないのです。
 くだんのHPの件は、世間で何度も話題になったものでもあるようです。そのうち、渦中の教授も気付くかもしれません。確かに、公の場に公開するにふさわしい発言ではないのです。ですから、そっと、振り返って、HPを差し替えてくれれば、それでいいのではないでしょうか。あるいは、彼の定年も遠くないです。苦しい生活を送らざるを得なかった、それがゆえに、今の時代からすると的外れな思いを抱かざるを得なかった。その世代が去っていくことで、一時代にあった考え方は消えていくのではないでしょうか。一方で、そうした苦悩の中で彼らが貢献し、発展させた科学は、次世代に受け継がれていきます。最後に残るのは、彼らの苦悩の痕跡ではなく、それを乗り越えた末に生み出した、光り輝くものであってくれると思うのです。

※1 理想論を語るなら、多様な経験が仕事にも良い影響を与えられるのが理想です。ひとつの示唆として、『ちいさい言語学者の冒険』という本があります。言語学者が子育てをして、専門に関係した気付きを得るお話です。

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