見出し画像

小麦を蒔く その2

 今回小麦を作る土地である東京郊外のまち、小平。ここは武蔵野の真っ只中に位置する。海も山も近隣にはない。武蔵野とは今では武蔵野市のことと思われる方も多いかもしれないが、その範囲はより広く、西北は入間川、東北と東は荒川(隅田川)、南は多摩川によって限られた台地エリアのことを指す。

 現在の小平は都心部に通勤するサラリーマン世帯が多く住むベッドタウンとして栄えているが、農地が点々と残り、地元の人しか知らない土が露出した細く古い農道は、今でも現役で使われている。その小道を歩いてみると目に入るのは丁寧に手を入れた畑や、昔ながらの平屋の農具小屋、柊の生垣は刺々しい葉がセーターに引っかかり、大きな風格のあるケヤキやシイの木々が小道のところどころに鎮座する。この小道を地元の人々は「たからみち」と呼ぶ。

 いにしえの武蔵野はススキの繁った原野であったが、その詩情豊かな自然の美しさが古来より詩や歌の題材として人々に愛され、万葉集や古今集をはじめ数多の芸術作品に取り上げられている。中でも特に有名な作品として、国木田独歩の「武蔵野」がある。かつて表現されたような荒野のおもかげを残しながらも、雑木林が生い茂り農地と屋敷がシームレスにひと続きになる武蔵野の風景の美しさは、自然のみによるものではない。

 もともと、小平は武蔵野台地に開かれた新田(しんでん)村だ。新田とは、新たに田や畑などとするため開墾して出来た農地、開拓地のことである。江戸時代に江戸幕府や各藩の奨励のもと、役人や農民たちの主導で食糧増産のために新田開発が日本各地で行われ、小平もその一環だった。

 小平市で最初に開かれた小川村は、約360年前の明暦2年(1656)に、江戸までの石灰を運ぶ道として作られた。それまではこの辺には川がなく、人間が生きていく為の水が得られなかったため、武蔵野の乾いた荒野が広がっていただけだった。そんな荒れた武蔵野に、三代将軍家光の時代に水道計画が立てられた。目的は人口が増加し膨張する江戸の人々の飲料水の確保のためだった。幕府にこの事業を命じられた玉川兄弟は、大変な困難の中、資金難や二度の失敗を乗り越え、なんとか承応2年(1653)に玉川上水が開通した。

 開通時は江戸の町もたいへん盛り上がったらしい。その様子はこう記されている。

「多摩川の水は白いしぶきをあげて延長四十キロにわたり、はげしい勢いで江戸市内に流れ込んだのである。武士も町人も歓呼の声をあげ、三日間大騒ぎをしたと記録されている」。

 その後承応4年(1655)には野火止用水が開通し、小平には玉川上水と野火止用水という2本の川が流れることになった。

 その結果、小平にも人が住めるようになった。玉川上水の周辺に住みはじめた開拓者や移住者も増えた。いつからかは正確には不明だが、私の高祖父もそのうちの一人だ。そして私もその子孫のうちの一人だ。小平開墾の歴史のことは小学校で九九を覚えるように身につけて育ったのだが、この小平の新田開発史の中にさらっと自分のルーツがあることに、改めて驚き、身震いした。

 真偽が気になって市役所で戸籍謄本を取り寄せてみた。市の方で保存している記録で一番古く遡ることができたのは、明治時代の高祖父の名前と本籍地だった。筆文字で記されたリアルな現実の情報として手元に存在する戸籍謄本を受け取ると、不思議な感覚を味わった。もし玉川上水ができなければ、開拓地としての発展はなかったわけで、私は生まれていなかったかもしれない。玉川上水は私にとっては母なる川、と言っても過言ではない。あの太宰治が入水心中した玉川上水は、様々なものを受け入れながら、今も東京の土地を流れ続けている。

参考文献:「郷土こだいら」小平市教育委員会

応援してくださると大変喜びます!