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プロとは (言葉のプロであること)

プロってなんだろう。プロフェッショナルって。専門家って。プロ意識って。

(上の話の続きみたいなものを。)
50過ぎのおっさんの子ども時代の話を聞かされてもなんだかなぁって思うだろうけど、子どもの頃のおれはプロレスが好きだった。
そこからシンプルに「レスリングには2種類ある。プロレスとアマレス。プロレスラーはレスリングを職業にしている人であり、それ以外はすべてアマチュアレスラー」と捉えていた。

しかし子どもながらに、アマチュアでもプロレスラーより強い選手がいることととか、国家的威信を背負ったアマチュアレスラーがいるとか、プロにもプロ意識を感じさせない選手がいるとか、そういう「それほどシンプルな話ではない」ということはわかっていた。
ただ、そうしたゴチャゴチャを受け入れて「プロはそれでメシを食っている人」という判断に落ち着けていた。この頃から、いろいろと考えるのは好きなものの白黒つけたがる傾向はあったと思う。

そして、このときの結論的な「定義付け」は結構根強く、今も、プロとはそれを職業にしているかどうかにより決まるという「思い込み」が、どこか深いところにしっかり残っている気がしている。


「思い込み?」
…上の文章で「思い込み」という言葉を使うかどうか、結構迷った。「プロとはそれを職業にしているかどうかにより決まる」というのは、決して少数ではなく、それなりの数の人がそう思っている、あるいは信じていると思ったからだ。…その考えを「思い込み」という言葉にはめ込んでしまっていいのかな? って。
それでも「思い込み」という言葉を使ったのは、「プロであること」を定義する唯一無二なものはなく、どんな定義もすべて「思い込み」の範疇を出ないと思ったから。
こういうとき「professionという原語から考えると…」とおれは言いがちなんだけど、プロに関してはそこに根拠を求めるのはもはや現状にそぐわないかなという気がしている。
思い込みにはネガティブな意味合いはなく、どれも横並びの可能性を示しているのにすぎないと思ったからだ。

金銭のやり取り、本人の自自己認識、他者からの認知、何らかの実績、専門家としての矜持…。なにを持ってプロなのか。プロフェッショナルか。
正直、正解や、みんなが同意するものを求めたりする必要は感じない。なぜならどれも特定の局面においての正解でしかないと思うから。
みんながそれぞれ、自分にとっての「プロ」がなんであるかを理解して、それを伝えられればいいのではないか。
というか、それ以上のことはできないのではないだろうか? (…って、悲観的すぎるかな?)

と、ここまでうだうだ書いてきたけれど、おれは自分自身を「言葉のプロ」と称している。
そして「言葉のプロ」とは、こういう存在だと思っている。

「プロならどうにかしろ」
「それでよくプロを名乗れますね」
「プロとしていかがなものかと」
—— こうしたさまざまな「その人が思うプロの定義」や言葉を(いろいろと思うところはあろうと)まず正面から受け止めて、一つひとつそれに向かい合おうとする意識を持って活動する人が、プロだ。
おれにとっての「言葉のプロ」とは、それを自称することで起きるさまざまな面倒ごとを引き受ける覚悟を示す。

そしてこれはロジカルに組み立てられて行き着いた考えではなく、そういう「自分にとっての苦労や苦痛」も受け入れると宣言することが、おれにとっての「プロ像」に行き着いたということだ。


なんだか、子どもの頃よく行っていたプロレス観戦のことを思い出す。
「お前もそれでもプロか!」「おい! プロレスラーだろ! 意地を見せろ!!」 —— プロレスラーたちは、それぞれのスタンスでこうした野次や声援に応えていた。
「うるせえ! おれが必死なことくらい見ればわかるだろ。」「プロレスラーの前に人間なんだよ!」「じゃあお前ここに来てちょっと変わってくれ〜。」

どのレスラーもこんなふうだったわけじゃない。でも、そうやって応えるレスラーたちの姿は、今もしっかりと記憶に残っている。

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