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民主主義と余白と内側にある問い

【民主主義という言葉の意味を8日間の経験を経て、どのように考えますか?】
【余白という言葉の意味を8日間の経験を経て、どのように考えますか?】
【8日間の中で自分の内側にある問いに気づける体験はありましたか?】

最後の最後まで、問いかけ続けてくるのなCompath…。

先々週参加した8日間の北海道東川町での冬のフォルケ。参加後のアンケートに並ぶ問いは、どれも簡単に言葉にして答えられないものばかりで…。
一瞬「そっ閉じ」したくなりました。
でも、どれも大切な問いで、これに応えることが8日間の統括なのかもなぁとも思いました。

それにしても、どんなにインパクトの強いものであっても、人はもりもりと消化してしまうものです。ディテールはどんどん脳の襞の奥の方へと畳み込まれていき、あのときの「感覚」だけが残っています。
とくにおれは消化力だか忘却力だかが人より強いようで、大切なことをササっと奥の方にしまいこんでしまったり、ポンっとそこいらに置いてしまうことがあります(だから、こうして言葉にして残したり、それを周囲に伝えることで自分の脳へのインプット回数を増やそうとしています)。

■ 民主主義という言葉の意味をどのように?

民主主義の意味は、この一年間ずーっと考え続けてきたこと。
そして「だれもが自分自身でいるための道具」というおれの「民主主義」の定義は、あの8日間で変化することはなく、深まるばかりでした。

ただ、付け加えるべきは「民主主義は育てゲー」という感覚。
「一人ひとりがそれぞれ自分の民主主義を実践していけばいい」という思いも根底にあるのだけれど、今、自分たちが過ごしている場をもっと良くしたいと願うのなら、どうやらそれだけでは足りないなということも感じました。

おれには、平等性を重んじる部分がまだまだ足りていない。
おれ自分が自分の意見を主張することに尻込みすることはないけれど、尻込みしている人を見つけたり、うまく主張することができずにいる人を感じとったときに、ちゃんと手を差し伸べれているかな? って。

…「分かりづらさは排除を生み出す。だから、民主主義は分かりやすくなきゃいけない」って考えがおれは好きなんだけど、分かりやすさと同じくらいおれはもっと深く「関与のしやすさ」について考えを深めなきゃダメだ。
関与のしづらさも、排除を生み出すことにつながると思うから。

■ 余白という言葉の意味をどのように?

ここでいう「余白」って、「埋められていない部分」であり「その場で自由に決められること」っていう意味だと思うんだけど、余白との付き合いが上手な人って、実はそんなに多くない気がしている。

自分のためだけにフルに使っていい時間って、実はいつでもそこにあるんだと思う。少なくとも5分や10分なら、ほとんど誰だっていつだって自由自在に取ることができるよね。
でもそれを普段意識していないから、「さあどうぞ」とばかりに余白を手渡されても、うまく使いこなせない。

余白を使いこなせるようになるには、それなりに心構えが必要で。
その心構えを身につけるには、やっぱり日頃から「余白を手元に置いておく」ことが必要だなって思いました(鶏とたまご)。
おれの場合は今のところ、日々のウォーキングがその助けになってくれているみたい。

■ 自分の内側にある問いに気づける体験は?

「内側にある問いに気づける体験」…うーん、おれにとっては一つひとつの体験ではないのかも。
今回、集団生活とか集団行動とかの中で、自分の感情が思っていた以上に揺れ動くことをメタ視点で感じていました。
「へー、おれ、こんな感情を抱くんだな」って。

そして改めて強く感じたのは、おれは自分のことを「大好き」な度合いも「大嫌い」な度合いもやっぱり相当強いんだなぁってこと。
これは8日間だけのことじゃないけれど、もっと長いスパンで振り返ってみると、「大好きな自分」と仲良くする術がずいぶんと上手くなったなぁって。自分を褒めたくなりました。
大嫌いな自分も、「しょーがねぇなー」ってそれなりに愛おしく感じられるようにもなったしね。


冬のフォルケの総括、やっぱりこれがそうだったのかも。
これからも「まじりけのない赤」って感じてもらえる自分でいたいな。
まずはおれがおれ自身にそれを感じられるようでいないとね。

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