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あまり知られていない広島観光案内

私は広島生まれ、育ちです。
大学進学、卒業、社会人の一時期を京都で過ごし、Uターンしてきました。

そんな私が、ある広島の観光スポットを紹介します。
ただ、エンターテイメント性があるかといえばNOです。
立地は、平和記念資料館(原爆資料館)、平和公園からすぐ、市内中心部からも徒歩で行けますので、その辺りに行かれたときにでも行ってみてください。

■ 私の出身高校


話が遠回りしますが、私は広島市立舟入高等学校という高校を卒業しました。
この高校、今は男女共学なのですが、戦前は広島市立第一高等女学校、通称「イチジョ」という学校でした。

当時、既存の女学校といえば良妻賢母の育成が主眼とされたのですが、創設者たちはこれを良しとせず、大正デモクラシーを反映した自由な校風だったそうです。
こうしたことから、当時の女性が憧れる進学先だったそうです。

余談ですが、その雰囲気は戦後も残り、乳幼児を預かることで女性の社会進出を進めることを目的とした保育園を、女学校の同窓会が創設、運営しました。なかなかいかした先輩方です。

話を戻しますが、戦前のイチジョは、自由な校風のなかなかいかした憧れの女学校だったそうです。

■ 建物疎開ってなに?


このいかしたイチジョも、第二次大戦が進んでいくと1、2年生は建物疎開に、上級生は軍需工場へと駆り出されます。

建物疎開という言葉、意味がわかりますか?
人間が疎開するというのは、けっこう聞くことがあると思います。都会とか空襲の標的になりそうな地域に住む人たちが、田舎へ避難することです。

しかし、建物は避難させることができません。
建物疎開というのは、空襲を受けたとき火災延焼を防止するために、密集した家屋などの建物を間引いて壊すことです。
要は建物の解体作業ですね。

上級生(14~16歳くらい)は軍需工場で大人に混じっての製造作業でも戦力になるけれど、1、2年生(12~14歳くらい)は解体作業で廃材を運ぶ手伝いでもやっておいてねというところでしょう。

■ E=MC2


建物疎開は、空襲を受けそうなところで行われます。
ある日、木挽町という場所で1、2年生は解体作業のお手伝いをしていたといいます。

木挽町という地名は現在ありません。現在の平和記念資料館のすぐ南側だったそうです。
つまり、ほぼ爆心地です。

その夏のある日の朝に、作業していた1、2年生たちは全員が亡くなりました。
541名が作業していたそうです。

他の場所に居た人を含めると、676名が亡くなりました。

イチジョといういかした学校は、広島で最も多くの原爆犠牲者を出した学校になりました。

戦後、1948年に学校内に慰霊碑が建てられました。

慰霊碑

真ん中の少女の持つ箱に「E=MC2」と刻まれています。
これは相対性理論の原子力エネルギー公式です。
1948年当時、「原爆」という言葉を使用することは占領軍の手前はばかられたため、こうした表現にしています。

校内に建てる碑でさえこの注意深さです。さすが、被爆直後の赤裸々な記録書類を占領軍に没収されることをおそれ、校内に厳重に秘匿した学校だけのことはあります。
※この慰霊碑は、サンフランシスコ講和条約後、校内から平和記念資料館から道路をわたった南側に移設されました。彼女たちが作業していた場所あたりです。

さらに見てみると、中央の少女だけ頭髪がおかっぱでモンペ姿で天使のように羽根を持っていること、両脇の少女は長髪でスカート姿であることがわかります。
中央の少女が亡くなった人を、両脇の少女は戦後(あるいは大正デモクラシー期)の人を表しています。

■ 広島は怖いというあなたへ


平和記念資料館(原爆資料館)を見るのが怖くて苦手だという人がいらっしゃると思います。

それは私もわかります。
アウシュビッツ記念館が大量のメガネを積み上げて、亡くなった人の数を表したりするのと比較すると、平和記念資料館は直接的な映像、展示物もあります。
正直に言いますが、苦手です。

実態はあのようなものじゃない、もっとひどい、見てみないと実態がわからない。そうした考えも理解できます。

ただ、私は、無理をされることはないと思います。
その代わりに、この慰霊碑を見に行かれてはいかがでしょう。(もちろん両方見に行かれるのも良いと思います。)

【追記】
地元テレビ局制作のドキュメンタリーが、YouTubeにアップされていました。
『少女たちの公式』


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