弁理士 → 米国弁護士 → ?
昨年に引き続き、パテントサロンさんのクリスマス企画、知財系Advent Calendar 2024用の投稿記事です。知財系もっとAdvent Calendar 2024も併せてお楽しみください。
今年は、私自身のキャリアについてお話させていただければと思います。クリスマス要素などなく、私個人の話でしかないので誰の得にもならない内容かも知れませんが、少しだけお付き合いいただければ幸いです。
弁理士を知るきっかけ
私が弁理士を知るきっかけとなったのは高校生のとき(正確には、私は高等専門学校出身なので高専生のとき)でした。記憶が曖昧なのですが、高3のときだったと思います。
当時、ある大企業の知財部長さんが学校に来て下さり、知的財産、特に特許についての特別講義をしていただいたのですが、そのお話の中で出てきたのが弁理士という職業でした。
偶然といえば偶然ですが、父が務めていた会社であり、かつ、父は研究職についていたので、その特別講義が開かれることを父に話をしたら、講義をしてくださる知財部長さんのことを昔からよく知っていると言われ、これは良く話を聞かなければと思ってかなり集中して講義を聞いた記憶があります。
また、講義の後にはその方のところに個別にお話しを聞きに行ったのですが、しきりに弁理士を薦められたのが印象に残っています。
社会人生活の始まり
そんなこんなで弁理士という職業について何となく興味を抱いてはいたものの、大学院を出た後の最初の就職先ではエンジニアとして働き、知財とは全く関りのない生活をしていました。
新卒で知財を考えなかったのは、①海外で働ける仕事に就きたかった、②弁理士試験はかなり難易度が高いのでひよった、という2点が大きかったと思います。
また、幸運なことに就職活動がかなりスムースに行き、早々に海外のグローバル企業への就職が決まったことで、社会人になりたての頃には、すっかり弁理士(知財)のことは頭から抜けていました。
知財業界への転職
就職した企業では、最初にUAEのアブダビで1週間の新入社員研修、カタールで2か月のOJT、その後に勤務地のオーストラリアへ赴任、という、「ザ・グローバル」な生活で充実していたと思います。
オーストラリアに赴任後も、2か月の新人研修をフランスで受けたり、中東地域への長期出張に出かけたり。
途中、リーマンショックも経験し、朝出社したら直属の上司がいなくなっていた、なんてショッキングな事件もありましたが、刺激だらけの毎日でした。
そんな企業での生活が2年ほど経った頃、会社から転勤の話が出ました。
もともとグローバルに動けるポジションとして採用されていたので、2~3年で異動になることは覚悟していたのですが、転勤の候補として出されたのがいわゆる「危険な国」と認知されているところだけであり、異動の話を受けるか退職するかで悩みました。
結局、会社ともいろいろと話を重ね、良い提案もしてもらったのですが、当初から5年程度勤務したら転職しよう、と考えて就職した会社だったので、予定よりちょっと早かったですが退職することにしました。27歳の春でした。
退職を決断し、転職先を考えていたときに思い出したのが弁理士でした。
転職するにあたっては、それまでのキャリアを活かせる道を探すのか、全く新しい道に進むのか、というのが最初の別れ道になるかと思いますが、私はそれまでのキャリアがちょっと特殊だったこともあり、全く新しい道を探すことにしました。
とはいえ、アラサーの自分が新しい業界に入るのであれば何か資格を身に着けた方がいいだろう、と思って自分に合った資格を探していたら、「技術系で英語力を活かせる資格」で弁理士が見つかり、高3のときの記憶も相まって、これだ!と思ったのを今でもよく覚えています。
そこからは、弁理士試験の勉強をしつつ、特許事務所で実務を学び、弁理士試験に合格した後は中規模の事務所への2度目の転職をしました。
理想の弁理士像を追い求めて
晴れて弁理士になることができたわけですが、既に弁理士の数は飽和していると言われ始めており、弁理士であることに胡坐をかいていたら仕事がなくなるという危機感も感じていました。
弁理士で実務経験があれば勝手に仕事がくる、という時代はすぐに終わり、同じ弁理士の中でも自分の特色・強みがなければ、弁理士として成功することは難しいだろう、というのが何となく描いた自分の予想でした。
その予想が合っていたのかどうかはまだ分かりませんが、自分の特色・強みってなんだろう、と考えたときに真っ先に思いついたのが、英語をツールとして使えることでした。
いまどき、弁理士で英語が全くできません、という方はあまりいないと思いますが、読み書きだけでなく、口頭でのコミュニケーションも含めて英語を使えます、というのは比較的少ないんじゃないだろうか、と思い、そこを活かせないかと考えました。
そこで最初に始めたのが弁理士会の国際活動センターでの活動で、初めは米州部に所属させていただきました。
米州部には、既に米国実務に深い知見を持った先生方がたくさんおられ、特に最初の1,2年はとても勉強になりました。その中には米国のPatent Agent試験に合格された経験を持つ先生も何名かおられ、せっかく勉強するのならPatent Agent試験を目指すのも面白いかも、と思うようになりました。
ただ、Patent Agentの資格は、米国籍や米国の永住権がない場合、有効なビザを保有している期間に限定して与えられる資格となっていることも知り、Patent Agentの資格を受けることにどれだけの意味があるだろうか、という疑問も感じていました。
もちろん、合格できるだけの知識がある、というアピールになると思いますし、全く意味がないとは思いませんが、個人的な興味という点ではPatent Agent試験への興味はすぐに薄れてしまいました。
そうだ米国弁護士になろう
せっかく資格のための勉強をするのなら、きちんと保有できて活用できる資格がいい、ということで次に考えたのが米国弁護士の資格でした。
米国弁護士の資格については国籍やビザなどの要件が課されないため、合格して登録すれば立派に弁護士です。「べ・ん・ご・し」。響きがいいですね。笑
一口に米国弁護士といっても、米国の弁護士資格は州ごとに与えられる資格であり、州ごとに受験資格も異なるので、どの州を受けるのか、というのによってするべき準備も変わってきます。
ただ、知財人にとって朗報なのは、米国特許法は州ごとに規定の異なる州法ではなく、米国全体で統一的に適用される連邦法であるため、特許法を扱う限りにおいて、どの州の弁護士か、というのはあまり関係がありません(訴訟事件を取り扱う場合、複雑になることもありますが)。
そして、ベテランの弁理士の方であればご存知かと思いますが、以前は、「日本の弁理士である」というだけでカリフォルニア州の司法試験を受けることができました。もちろん、合格するための勉強は必要ですが、受験するだけなら日本の弁理士資格のみでOKでした。
ただ、現在ではこの制度はなくなっており、「日本の弁理士だ」というだけで受験できる州はなく、どの州の司法試験を受けるにせよ、何らかの法的バックグラウンド(法学部を卒業している等)が必要となります。
現在、日本の弁理士にとって一番受験へのハードルが低いのはカリフォルニア州とイリノイ州ではないかと思うのですが、この2つの州であれば弁理士資格+米国ロースクールの修士課程(LLM)で受験が認められる可能性があると思います(間違っていたらすいません。米国弁護士を目指される方はご自身できちんと確認してください)。
続いて受験資格が緩いのがワシントンDCやニューヨーク州かな、と思います。こちらについては、日本での法的バックグランド(日本の法科大学院卒業など)と米国ロースクールの修士課程(LLM)で受験資格が認められる可能性があると思います(こちらも間違っていたらすいません)。
どの州を選択するのかは個人的な興味によるのかなと思います。
私はいろいろと考えた結果、きちんと法律を体系的に勉強しておきたいな、という考えもあり、先ずは日本の法科大学院に通うことにしました。後で気持ちが変わったときに備えて選択肢を多くしておこう、という気持ちもありました。
正直、昼間に仕事をし、夜間に毎日法科大学院に通う、という生活は結構ハードで、家族には大分迷惑を掛けましたが、途中単位を落としつつも何とか(ギリギリ)留年することなく3年で法科大学院を卒業すできました。
この時点で、卒業から5年間は日本の司法試験を受験する資格も得たのですが、ちょうどコロナ禍になってしまったこともあり、結局、日本の司法試験を受験することはしませんでした。
一応、大学院ではゼミにも参加して過去問を解いたりしていたのですが、コロナ禍で全てがリモートになってしまったことで気持ちが萎えてしまいました。もともと目指していた資格でもなかったですし、仮に合格しても1年間の司法修習を受けるのは現実的に無理だったので、諦めたときは却ってすっきりした気分でした。
結果、法科大学院卒業後にはすぐに米国のロースクール入学に向けた準備に入りました。米国のロースクールといっても、フィラデルフィア州のTemple大学が東京にキャンパスを持っているため、修士課程(LLM)の授業は日本にいながら受けることができます。
また、Temple大学入学と時を同じくして今の事務所に転職しました。当初の計画では、Temple大学卒業後か、米国弁護士を資格できた後に米国の事務所に転職するつもりだったのですが、知人から、今の事務所が日本で求人公告を出しているよという話を聞き、この時期に転職が決まりました。
後はもうやるべきことを自分なりに一生懸命やるだけでした。
Temple大学に通うのもラクではなかったですが、修士課程(LLM)は決まったカリキュラムはなく、必要な単位数を好きなタイミングで取得すれば卒業、という緩い制度になっているので、1学期に1科目だけ履修でも卒業できます。私も、自分のライフスタイルに合わせることができたので比較的余裕をもって通うことができました(かなりゆっくりとしたペースで通ったので2年半かかりましたが)。
当然、卒業後は試験勉強に励んだわけですが、その辺はどの資格試験でも変わらないかと思います。予備校のようなところも使いました(オンライン)。
おかげ様で一発合格できたわけですが、正直、一度の試験だけで燃え尽きたような感覚になっていたので、合格できていなかったら、そのままずるずると不合格が続いたんじゃないかと思います。
これからのキャリアを考える
さて、既にお腹いっぱい、もう読むのを止めます、という方も多いと思いますが(笑)、お時間と気力のある方はもう少しお付き合いください。
私は、自分の知財人としてのキャリアはまだ20年、もしくは25年くらい続くんじゃないかと思っています。知財人としてのこれまでのキャリアが15年弱ですので、まだ折り返し地点にも立っていない計算になります。
まだ折り返し地点手前だと考えると、引き続きスキルアップは続けていかないといけません。資格を取るだけがスキルアップではない(資格を取ること=スキルアップではない)ですが、やはり米国知財の専門家を自称するのであれば、Patent Agent試験はどこかで合格しておきたいので、分かりやすい目標としてはPatent Agent試験の合格になるのかな、と思います。
ただ、Patent Agent試験はトレーニングビザ又は就労ビザがないと受けられないですし、それなりに米国に長期滞在する予定がないと受験申請が却下されることもあるので、そこはタイミング次第かなと思います。既に実務をしながら知識は蓄えられているので、特に焦ってはいないです。
また、スキルアップとは違うかも知れませんが、仕事の幅を広げるという意味で、セミナーに登壇する機会を増やしていけたらいいなと思っています(どなたか、お誘い待っています!笑)。
弊所のクライアント向けのセミナーであれば既に何度もやらせていただいていますが、これからは、もっとオープンな場でのセミナーもやりたいと思っています。
日本の特許実務経験と米国の特許実務経験、この2つの経験を活かした視点から話ができる、という点では、アメリカから来日してセミナーをされる他の米国弁護士との差別化もできるかな、なんて期待もしています。
米国実務を日本語で学んでいただく機会としても活用していただければいいなぁ、なんて夢を抱きつつ・・・。クリスマスですからね、夢を見ないと。
さいごに
まだ続くのか!とツッコミを受けそうですが、最後に、これからのご自身のキャリアについて悩んでいらっしゃる若手?の知財人の方々へ、中年おじさんからのメッセージです。
冒頭、日本の弁理士の未来は明るくない、ととれるような表現をしましたが、それは全体的にはそういう傾向がある、というだけで、弁理士(あるいは知財)という仕事に明るい未来が全くないとは思っていません。
どんな職業であれ、明るい未来があるかどうかは、やはり一人一人の努力にかかっていると思います。
正直、私のここまでのキャリアは順調といっていいんだと思います。私は、よく「運が良かっただけですよ」なんてことを言いますが、正直、社交辞令です(笑)。
本音を言えば、「運が自分に向くようにやるべきことをしているから」、「チャンスがあったときにそれを逃さないように常にアンテナを張っているから」であり、ちょっと誇張していえば、これまでの私のキャリアが順調に見えるとしたら、それは私の努力の賜物だと思っています。
芥川龍之介の言葉に、「運は偶然よりも必然である」というものがありますが、私も全く同意見です。偶然を待っていても運は手に入りません。運が欲しかったら自分が動かないといけないと思います。
キャリアアップという良い運・出会いを目指すのであれば、そのために何が必要なのかを具体的に考えて行動するところから始めてください。どこかにいい求人ないかな~と求人情報を探すだけでは具体的な行動とは言えません。
自分に何ができそうか、何をしてみたいか、この記事が、そんなことを考える一つのきっかけとなってくれたのなら、こんなに嬉しいことはありません。