読書は能動的行為

至るところで読書は良い、読書すべきだ!と言われている。その風潮は別に間違っていないとは思う。

しかし、読書量を増やせばいいと思ってただ闇雲に読書量を増やすのは意味がないと私は思う。読書量でマウントを取ることが目的ならばそのような読書の仕方で問題ないだろうが、読書を通して人間としての魅力を底上げしたいのならば、ただ文字列を追うだけの読書から卒業しなければならない。


では、どのような読書をすべきか?一言で表すなら「能動的」に本を読むべきであろう。

能動的とはどういうことか?言い換えると、本に書いてある内容をそのまま受容するのではなく、本の内容を自分の中で咀嚼し、活用することだ。食事に例えるならば、収穫した野菜をそのまま食べるのではなく、他の食材と組み合わせて調理して一つの料理にして食べるようなものだ。

ショーペンハウアーは著書『読書について』において、読書の弊害について述べている。

本を読むとは、自分の頭ではなく、他人の頭で考えることだ。

本の文字列をそのまま追うことは他人の考えたことを反芻するに過ぎない。自分の頭で思考する際の補助として読書を位置付けるべきなのだ。


「つまり、アウトプットが大事なんでしょ?」と思う人もいるかもしれない。これは半分は合ってて半分は間違っている。

『アウトプット大全』が流行って、アウトプットの重要性についてはある程度広まったように思える。しかし、あの本に書いてるアウトプットの方法では不十分だと私は考える。

『アウトプットが大事だ!』と思って、読んだ本の要約をnoteに書く人がいるが、ハッキリ言ってこの行動はアウトプットではなくただのコピペだ。ノートに英単語を書き連ねるのと変わらない。試験を控えているのなら暗記方法としては効果があるだろうが、私たちは試験のように答えのある問いに取り組んでいるわけではない。

読書をするときは、本の内容に対して自分の頭で考え続ける。この記述は本当に正しいのか?なぜ筆者はこのような意見を持っているのか?筆者と議論するように読む。そして、本に書かれている内容を自分の人生に適合するように加工する。そして、加工したものをTo Doリストや習慣に落とし込む。

すぐに行動の変化に結びつかなさそうな知識は、然るべき時のために自分の頭にストックしておく。ここでも、知識を断片的に記憶してはただの雑学王にしかならない。体系的に知識を覚え、欠損する部分を補うような読書をするのが良いだろう。知識を抽象化して異分野の知識と結び付けたり、自分の経験と結びつけるのも良い。

この程度まで本の内容を昇華してから、ブログなどで情報発信することでただ要約記事を書くよりも何十倍も効果がある。情報発信するメリットはフィードバックを貰えるがあるが、仮に誰にも読まれないにしても、情報発信のコンテンツを作成する段階を経ることで、思考を整理することができ、不足している知識などを確認することができる。これで次に読むべき本を選定することができる。


上記の内容を読んでもらうとわかると思うが、一冊の本を読むのはとにかく時間がかかる。全ての本を読み込むには圧倒的に時間が足りない。だから、読むべき本を見極める過程が重要になってくる。また、選定した本も全ページを通読するか、一部だけを読み込むかについて見極める必要がある。この内容については気が向いたら別記事を書く。


読書の方法に関する記事を書いてみたが、この方法を実践するには結局は読書経験を積んで、自分で「気付く」しかないと思う。読書は能動的行為だと散々書いてきたが、初めの内はとにかく読書量を増やして読書に慣れるのも良いと思う。しかし、常に読書の効果を最大限にするために改良を重ねる姿勢を持つ必要はあると思うが。まあ、これは読書に限った話ではないが。



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