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性虐待を受けた私が鬱病の診断に至るまで


先日、重い腰をあげてメンタルクリニックに行ったところ、新型鬱病+PTSDの診断を受け
ふと自分の人生を振り替えってみたくなり
noteを書くに至りました。

正直、文章を書くのが得意では無いので
他のnoteと比べて読んでいて分かりやすいことも無ければ、面白い事も多分無いです。

それでも、少しでも同じような傷を持つ人が見て、独りじゃないと感じてくれたらいいな、病気が治った未来の自分がこのnoteを見て、頑張ってえらいね私と言ってあげられたらいいな、なんて思いながら書いています。

あと、父親がのうのうと暮らしてるのが許せない恨みの気持ちもちゃっかりあります。
本当は本名も職場も全部言ってやりたい位の恨みは有ります。

前置きが長くなりましたが、私の人生についてお話します。

【0-2歳】
人生で1番幸せだったんじゃなかろうか
知らんけど

【3歳】

両親が離婚 シングルマザーになった母と共に暮らす

【4歳-小学5年2学期】
まだ若く、本来遊び盛りだった母が仕事のストレス+育児疲れで少しずつおかしくなって行く。
私の反抗期も相まって、殴る蹴る怒鳴るなどの所謂虐待が始まる。
裁縫針にライターで火をつけて指に押し付けられたこともあった。
この頃に、自分の髪の毛やまつ毛や眉毛を大量に抜くようになる。(後に抜毛症という病気と知るが、この頃はまだ認知されておらず、母は私の癖だと思っていたので、やめられない私に対する憎悪が重なり余計に虐待が悪化する)
母が家に男を連れ込むことが増える。
ちょこちょこ違う男だった気がするけど記憶はあやふや。
セックスしている声と音を聞くのが辛くて布団にまるまって寝てた。
週末のほとんどをおばあちゃんの家で過ごす。

【小学5年3学期】
母に父親が欲しいかと聞かれる
私は心も体も成長が早いタイプの子供だったので、「金銭的に厳しいし金持ちと再婚しなよ~笑」と言った記憶がある。
(ちなみに父親の事は子どもの頃になんでうちはパパが居ないの?と聞いた時、台風で飛んで行ったと言われていた。
今思えば面白い。そんなわけない。)
その後、とある重機専門の運送をする会社の社長と再婚する。

【小学校5年3学期】
父の会社のある市に引越しをする。
ボロアパートから綺麗なマンションにお引越し。念願だった犬を飼ってもらい、家に帰れば専業主婦になって優しくなった母親、夜は帰宅した父親と明るい食卓を囲み、学校も楽しく、楽しかった。
でも、あれだけ虐待していたにも関わらずコロッと母親になった

【小学校6年卒業後の春休み】
父親は仕事上年中色んな県にトラックで運送しており、付いてくるか?と言われてウキウキでついて行く。プチ旅行気分。
はじめて乗る大型トラックはとても楽しかった。
その日の晩、父と車中泊をする。
大型トラックは運転手が寝れるように運転席と助手席の後ろ側にデッドスペースがあり、人1人が寝れるくらいの狭めのベット的な空間があり、そこで寝ていいよと言われる。
その際、じゃれあいの中で体を擽られるが、擽ったがる私を見て、父親の顔色と目の雰囲気がガラッと変わるのを感じる。
今から書く事に嫌悪を強く感じる人がいるのも承知で素直に書きますが、
その時父がどういう目で私を見ていたのか、はっきり理解していました。
ただ、それが気持ち悪い事、いけない事だと言う概念は育ってなかったんです。
どちらかと言えば、雰囲気が変わった父への興味、性への興味、色んなものが勝り、私は拒否をしませんでした。
この時の事を悔やんでも悔やみきれずずっと自己嫌悪してました。私は、汚いなって。未だにそう感じます。怖いね、子供の興味って。

【中学1年】
環境の何もかもが変化する。
まずひいおばあちゃんがくもまっか出血で倒れ半身麻痺になり、それを機に母とおばあちゃんの2人体制で要介護度4のひいおばちゃんの介護をする事になり、
学区が同じ一軒家に引っ越す。

中学校は、私が居た小学校+ちょっとガラの悪い小学校の合併で出来た中学で、転校してから平和に過ごしていた私でしたが、当たり前のようにどのクラスでもいじめが起こり、当時抜毛症でまつ毛も眉毛もなく、家庭環境の歪みのせいなのか元々の性格のせいなのか、性格も見た目も終わっていた私も当然虐められ、この頃から少しづつ学校を休みがちになる。

父からの性虐待は終わらず、この頃になると父も調子に乗り出していたと思う。
母もおばあちゃんも2階に居て、1階にはひいおばちゃんが別室で寝ているのに、夜中にトイレで起きた私に口で咥えさせたり、玩具を買ってきて母親と3人で出かけている車の中で挿入するように指示したり、「お母さんに似て胸の形が綺麗だね」と言われたり「今お前が抱いてる感情は恋だよ、俺に恋してるんだ」等等、今思うと本当にav見すぎのロリコンで吐きそうになる数々の出来事を経て、
こいつ気持ち悪いのでは?と気付き出すが、母親に対する嫌悪がこの頃まだ強くあり、虐待していたクセに母親面をするなという反抗心から、誰にもsosは出しませんでした。


【中学1年2学期】
いじめを苦に不登校になる。
母に相談した所、山村留学というシステムを教えてくれて、(都会の子が親元を離れ田舎の寮で暮らすもの)四国の寮に入る。

【中学2年】
寮で暮らし、田舎の子と触れ合い、都会とは違う価値観や都会と違う景色、色んなものとふれあいながら家族と離れて、心が少しづつ浄化されるのを感じる。
それと共に父親への嫌悪が増す。

自我「えっ、うちの父親きっっっっしょ」

【中学2年の夏休み】
長期休みは留学生は実家に帰ることになっている。小学校の頃からの親友に会えるのと、寮は携帯が禁止だったので、携帯が使えることだけが楽しみだったが、実家に帰るのは気が重かった。
父親から私への興味が無くなっていればと期待するがそういうことも無く、二人でいることを極力避けても、性行為や性処理を求められる。
この頃の私は父親に嫌悪感がありながら、母親にバレてしまったら家族が壊れる恐怖心と、自分が馬鹿だったがために「理解していたのに拒否をしなかった」罪悪感から父の行為も断れず、母にも相談できなかった。

【中学2年3学期】
限界が来る。
学校の新任の先生に相談してしまう。
内緒にしておいてねと話したが、教頭にも警察にも全てに話が回る。
もちろん母にも。
この頃新任の先生を随分恨んだものだけど、今の自分でもそうする。
あの時の先生ありがとう、抱えきれないようなことを言ってしまって申し訳ないと今でも思う。
四国の寮に両親揃って呼び出される。
説明を余儀なくされた私と父は母を目の前にしてセックスをしたことを話す。この時の母の気持ちを想像すると、本当にやるせない。ごめんね、お母さん。
寮を飛び出すお母さんと追いかける寮の人。
この後の記憶が少し無い。そのあとどうしたんだっけその日はどうやって寝たんだっけ。全然記憶が無い。
ただ漠然と、全部が壊れた喪失感だけがあった気がする。
その後、児童相談所に半年ほど預けられる。
地獄だった。当時児童相談所は素行の悪い所謂不良と、ネグレクトや家庭内に問題があるような保護されている子供が一緒になって生活しなければならなかった。
寮よりも規則は厳しく、常に監視の目があり、自分のシャーペンですら「不公平だから」と持たせて貰えない。
遊ぶ時間も自由になく、不良の子達と強制的に同じ箱に詰められるのはとにかく辛かった。
職員達も業務的で(素行が悪い子も居たから職員も疲れていたんだろうなと今はおもうけれど)
罪人の気分だった。
何度も何度も脱走を繰り返し、
その度に行く宛てもなく、その辺をほっつき歩いては捕まって強制的に連れて帰らされた。
児童相談所の敷地の中には一軒家のようなものがあり、そこには老夫婦が住んでいる。児童相談所の職員ではあるが、他の職員とは明らかに雰囲気も違い、愛情深く優しそうだった。
児童相談所の職員に何度も何度もそこに移りたいと打診し、何度目かの申請で許可され移動する。
自室が与えられ、ある程度没収されていた自分の荷物を使用することも許され、おやつの時間もあり、家の中も普通の一軒家と変わらず、児童相談所という異質な空間の中、そこだけは唯一不思議な安心感があった。
生活に慣れだした数ヶ月後、
父と母の中でどういう話し合いがあったのかは分からないが、結論としては

・離婚しない

・私は大阪に帰らず卒業まで四国の中学に通い続ける

・退寮して、母だけ四国に来て二人暮しをする

ということが私の知らない間に決まっていた。おばあちゃんも離婚していて、男手と稼ぎ手が父しかいなかったので、半身麻痺のひいおばちゃんの介護含めてそれしか選択肢が母にはなかったのかなと、勝手に想像している。

【中学3年生】
また四国の学校に通いだし、母親と2人きりの久々の歪な生活がはじまる。
この時私より母の方がよっぽど精神的に不安定で「お前のせいでいつも幸せになれない」「産まなきゃ良かった」「お前のせいで結婚なかなか出来なかったのに、やっと出来た旦那も奪うのか」等、罵詈雑言を浴びせられる。
自分の中では全部正論だった。
なにか言い返した気がするけど、
あの頃の私は罪悪感に押しつぶされそうで、父親だけが悪いなんて到底思えなかった。私も同罪だった。
いちばん悪くないのはお母さんだった。
私がお母さんの立場なら、私は子供を愛せただろうか。子供と再構築する為に引越しして2人で暮らせただろうか。
こいつのせいでっていう気持ちと戦いながら、それでもご飯を作って、時に一緒に笑えただろうか。
私には全部できない。
今私は28歳になってあの時の母の凄さがよくわかる。世界一不幸な母親にしてしまった。その罪悪感だけがずっと付きまとった。

【中学卒業】
卒業前には母とも何となく修復出来ていた。(と言うよりはお互いパンドラの箱に閉まって、触れないように出来ていた)
進学後は大阪に戻ることが確定していたので、高校生活は謳歌するぞと意気込み、志望校へ合格して晴れて大阪に戻る。

【高校~専門学生】
ひいおばちゃんが亡くなり、
家には父、母、私、祖母の4人で暮らしていたが、祖母は父とのことを何一つ知らないので、仮面家族を演じることになる。
常に母の目が光っている気がした。
一瞬たりとも父と2人の時間を作らせまいとする疑念に満ちた視線が辛かった。
仮面家族が辛くて平気で2ヶ月くらい彼氏の家に泊まって家に帰らない日もあった。
この頃いちばん辛かったのは、「初エッチってどんなんだった?笑」っていう女子の恋バナの延長線上の会話だったと思う。
そういう経験した自分の体は汚くて、心も醜いと思っていたから他人には話せず、なんか適当な初体験の相手を想像で作って話してた記憶がある。
楽しい場で「初体験は父親です」なんて話して空気が凍るのは目に見えてるしね。

【専門卒業~23歳】
20歳で就職するもブラックで退社。
21で実家を飛び出し、一人暮らしをスタート。ここから犬を飼い、生きていくために夜職や色んな仕事をしながら必死に一人と1匹で生きていく。
こころなしか充実してた気がする。
一人でなんでも出来る万能感、未来への期待、家族からの解放、幸せだった。
この頃、昔からの夢だったイラストレーターになるべく、専門学校に通いたいなと思い、奨学金を借りると何かあった時に家族に頼らなきゃ行けないのが嫌だなと思い夜職に励み1年で350万円貯める。

【24歳春】
めでたく入学。
この頃、母から連絡があり
「父親と離婚するかも」と告げられる。
正直もうこれだけ仮面家族を続けられていたのだからこの先も死ぬまで夫婦でいるんだと思っていた。

【24歳夏頃】
父親が弁護士を立てて逃げる。
LINEもブロックされており急に連絡が付かず、事情が分からず困る。
詳しいことは当時パニックになっていた母からは部分的にしか聞けなかったが

・父の会社の経理が父の元嫁

・脱税してて、父の別居していた家に現金が数百万転がっているくらい裕福

・その癖、財産分与や慰謝料は渋り、私含め家族とは面会謝絶。弁護士を通してしか会話できない状態。

この話を聞いた数ヶ月後、母が首吊りで自殺未遂をする。
その後精神病棟に入院させられたと聞くがもちろん面会できるような状態ではなく、当時の母とは会っていない。
とてもじゃないが学校に行けるようなメンタルではなく、母も心配だったため退学する。
この1年間、知らないオッサンの裸体を見ながら歯を食いしばって頑張ったあの期間はなんだったのかと虚無になる。全てがどうでも良くなる。

【24歳冬】
殺意の波動が芽ばえる。
ずっと私も同罪だと思っていたが、小学6年生の責任能力といい歳したおっさんの責任能力は同じじゃないやろと気付く。
父からの謝罪と離婚の経緯が本人から聞きたいと何度も弁護士に打診するが拒否され、やむなく慰謝料の請求をする。
既に性犯罪としての時効を迎えているため、本人が認めていても民事でしか裁判ができず、当時お金のなかった私は弁護士を雇うことも出来なかった。
法テラスに駆け込むも、大した金にならない事案に、乗り気でやろうと言ってくれる弁護士は誰一人いなかった。
私は一人で相手の弁護士と話すことになった。
お金さえあれば司法は悪人の味方をするのかと思った。
警察も法律も弁護士も何もかもが嫌いになった瞬間だった。

【25歳】
慰謝料を100万程受け取る。
その際の誓約書の内容が非常に腹立たしいので書こうと思う。

・本件の父の言動により私を深く傷つけたことに対する慰謝料を100万円払う。(あくまで娘に性行為をしました等との記載はなし、小癪)

・本件を他言しない事

・養子縁組から抜けること

今思えばなんであんなのにサインしたんだろう
100万円で埋まるような傷では無いし戦えばよかったと思うけれど、相手の弁護士と話し合うことに心底疲弊していて、サインしてしまった。
はたちそこそこの女の子が一人で弁護士と戦うのは、とても辛かった。

【26~現在(28歳)】

時々過剰にイライラしたり
過眠を繰り返したり不眠になったり
金銭の管理が出来なくなったり
急にやる気が出たり無くなったり
とにかく生活の波が極端になる

人間関係にも影響が出たり、自分でも今の私おかしいなと思う事が増える。
常に誰かに刺されないかなと通り魔に出会わないか期待したり、道路を一切左右見ずに渡って、これで死ねたらラッキー死ねなかったらまた何回かこれ試してみようと思ったり、生きることに対する執着がなくなっていることに気づく、
毎日お酒に溺れて、浴びるように飲み
泥酔して寝て起きる。
この頃には仕事もほとんど行けなくなって居た。

28歳夏、飛び降りの自殺未遂をする。
警察に保護される。メンタルクリニックに通うことを前提に家に返してもらえる。

⇒通院
⇒PTSD+新型うつ病の併発
完治はどれだけ早くても2年以上はかかる

現在、1日15時間ほど寝たり、何も出来なかったり、そんな生活が続いている。
昔は母が不安定だったりそれを支えなきゃと思ったり、若かったから生きることに必死で病む暇もあんまり無かったのかな、それとももう昔から病気になっていたのかな、いつからこうだったのかは今思い出しても分からないけど、
気づけば壊れていて、気づけばアラサーになって、私は何のために生まれて、私の人生は今なんのためにあるのだろうと自問自答しながら、
毎日朝が来ることに怯えながら寝て、生活をしている。

こんな私だけれど、最近フワッと夢ができた。
私がうつ病になっていちばん辛かったのは、周りからの理解が得られないことだった。
私の経験なんて誰もしてないから誰にもわかりっこないというのは分かっているつもり。
でも私自身なってみて気づいたけど、鬱病って色々あって、病んで元気なくて死にたい時もあれば、めっちゃ元気な時もある(躁鬱とか新型うつ病はそうみたい)

私は特に元気な時は底抜けに元気なタイプだったから、元気がない時の私を見て、怠惰だと言った人もいた。
自分自身でもそうなんじゃないかと思って、怯えながら先生に「私はどこまでが怠惰でどこまでが病気のせいなのか知りたい」と言ってクリニックに通った。
先生は「何一つ怠惰じゃない。むしろ今は怠惰をしなさい。嫌なことはしなくていい。好きな事だけするんだよ。」と言ってくれた。
怒ったり病んだり、なにもしなかったり、これが全て私の性格なんだとしたら、なんて私は人として欠落していて欠陥なんだと思っていたから、すごく肩の荷が降りた気がした。
それと同時に、否定されないことの有難みを感じた。

今は、休職しながら心理療法士の資格を取りたいなと思っている。自分を知るため、あと同じような傷を持つ人の傷を抉らない人間でありたいから。

ただ辛いよね、わかるよって言うだけじゃなくて、もっとその先まで理解してあげられる人間になりたいと思うから。
そうなった時の自分が、今の私を見て、よく頑張ったねって褒められるように、これを書きました。

もし、インターネットの広い海からこれを見つけて見ている似たような境遇の人がいたら、子供なら、とにかく逃げて。悪い大人もいれば手を差し伸べてくれる大人もいるから、声をかけてみて。
逃げていいよ、家族であろうと捨てていいよ。
1番大事なのはあなた自身だよ。
あなたは何も悪くないよ。

病気の症状が酷い時に当時のことを思い出すと一気に死にたくなるので、何故かすこぶる元気な今、早朝5時から数時間かけてぶわ〜っと書いたので、支離滅裂だったり分かりにくいことも沢山あると思うんですが、何日もに分けて書きたい内容じゃなかったので、ごめんなさい。

未来の私に幸あれ~~!
あと生まれ変わっても私はお母さんの子供がいいです。来世は二人でハッピーに生きようね。

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