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オカルト  見 え ざ る 触 れ ざ る イノベーション

ネッシー、チュパカブラ、妖怪、UFO、シャンバラ、神隠し、PK、千里眼、霊界通信・・・
中2の林間学校の夜。女子部屋に遊びに行く代わりに同級生男子数人と、宇宙の始まりの謎そして地球文明の不思議と存在するかもしれない宇宙生命体の話に没頭して以来、科学の風味と未知のスパイスが効いたオカルトの味に酔い続けてきた。

ハッブル宇宙望遠鏡が撮影した渦巻銀河 M51, NGC 5194

オカルトとはラテン語のocculta(隠されたもの)を語源とし、目で見たり、触れて感じたりすることのできないことを意味する。有史以来、人間にとってこの世界のほとんどすべてが不可思議な現象で満ちあふれていて、見えざる力、触れる事のできない何かによって支配されていた。天体物理学が占星術と明確に区別され始めた近世であっても、万有引力を提唱したニュートンでさえ、「引力などというオカルト・フォースを科学に導入しようとしているペテン野郎だ!」という非難を浴びて散々だったという。立場が異なる文明や知識体系が衝突をしたとき、どちらも自分たちを正統と名乗り、相手をオカルト(異端)と名付け弾圧したことも興味深い。

1785年にウィリアム・ハーシェルが提唱した天の川銀河の形。
無数の星で形成され、太陽はほぼ中心にあると仮定された。

目に見えない現象というのはものすごく魅力的だ。だってそこにうまくオカルト・フォースを当てはめて仮説を立てる自由さが、とっても楽しいからだ。神の力や祈りの力、サイキックや超常の能力なんでもいい。目に見えないし手に触れられないのだから、想像であれこれの領域が広い。不思議な現象の類例をいくつも羅列して「これは○○の力なんよ!」と吹聴するプレゼンがメインとなる。しかしそれでも人は不可思議現象に「最も納得できる理由」を探求していく性質も持つ。それゆえにオカルトから科学が分岐、誕生したとも言える。占星術から天文学が生まれ、錬金術から化学が生まれ、永久機関からは物理学が生まれたことは疑いようがない。

1896年、アルベルト・フォン・ケリカーの手のX線写真

興味深いのはその流れが可逆性を持つということだ。1895年、人間の身体を透視するかのようにレントゲン写真に写すX線が発見されたのを皮切りに、放射線の発見が相次いだ。目には見えず触れることもできない光線が、目に見えず触れることもできない人間の身体の中身を透かしてみせたことは、まるで中世の魔術のように感じられたに違いない。このことは19世紀初頭の超常現象ブームを引き起こす。例えば「シャーロック・ホームズ」を書いたコナン・ドイルが熱烈弁護したことで有名なコティングリー渓谷の妖精写真というものがある。イギリスの二人の可憐な少女によって撮影されたあまりにも有名なトリック写真(その手法は妖精の絵本を切り抜き、遠近法をうまく使って配置した単純なもの)にドイルはもとより多くの大人たちが真剣に熱狂し、中世の宗教的奇蹟のようにさえ扱われた。カードを見抜く透視実験や、椅子やテーブルを浮かすテレキネシス、霊を呼び出して会話をする交霊術、霊を写真におさめるエクトプラズマなど、現代につながるオカルト的レシピは全てこの時期に開発されたようだ。トーマス・エジソンが最晩年に、霊界と通信する霊界電話(霊界ラジオ)の研究に没頭していたのもよく知られた話だ。エジソンは降霊会で霊媒師が用いる方法は非科学きわまるものだとし、科学的な別の方法を発明しようとしていた。1920年10月30日号の『サイエンティフィック・アメリカン』誌のインタビューに応じた記事の中で彼はこう語っている。

The first of the five photographs, taken by Elsie Wright in 1917,
shows Frances Griffiths with the alleged fairies.

「もし私たちの個性が死後も生き長らえるとすれば、個性は記憶や知性、その他私たちが現世で獲得した能力や知識を永遠に保ち続けるだろうと考えることは、論理にかなったものといえます。死後も個性が存続するならば、死者が後世の人たちと交信したいと考えるであろうことは、根拠のあることです。また、死後の個性は物質に影響を及ぼし得ると私は考えたい。もしこの考えが正しいとすれば、そして死後も存続し得る個性に影響されたり、動かし操作されたりできるほど精巧な装置を私たちが創りだせたなら、その装置こそ、何かを記録するに違いない」

21世紀、日本は予測を超えた大地震に見舞われ、連鎖的に超巨大津波が発生して原子力発電所の防潮堤を軽く超え、あり得ないはずの全電源停止によって原発がメルトダウンした結果、少なからぬ放射能汚染が福島で発生し、その汚染は現在も続いている。地震の予知、津波の予測、原子力発電のコントロール喪失、放射能汚染・・・この連鎖はすべて、目に見えず触れることもできない予測不能で圧倒的な力が関わったものだ。そして汚染という結果について、現代科学はうまく対処できているとは言えない。未知の現象に立ち会った時に社会全体で生きのびる方法は、科学者や政治家を吊るしあげる現代の魔女裁判でも、文明から下船して自然へ帰るルソーの桃源郷でもなく、清濁併わせ飲む「オカルト的なしぶとさ」なのではないかと思う。晩年のエジソンが霊界ラジオに取り組んだのはオカルトに当てられて頭がおかしくなったのではなく、死を記録を観察するためのひとつの契機として捉えていた節がある。人間存在を物理的な現象として記録できないかという極めて科学的な発想だったと読み取れるのだ。そこにあるのは、「わかっていることだけで解決をしない」という、生物としての人間がもつ特質的な生命力だ。現代は誰もが正統をフェイクすることができるし、いったんSNSの中で異端認定されると激しいバッシングに遭って生きづらくなる。だがそれはいったい何を生むというのか?おそらく科学も芸術も生まずに世の中がまた一歩つまらなくなるだけだ。いま、エジソンのようにオカルトさえも新しいイノベーションの原動力にしてしまうしぶとさが、とても人間的で自由な発想に見えるのはなぜなのだろうか?


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