【しをよむ123】新川和江「わたしを束ねないで」(2回目)——人間関係の名付けは第三者のため。

一週間に一編、詩を読んで感想など書いてみようと思います。

新川和江「わたしを束ねないで」

(田中和雄編『ポケット詩集』(童話社)より)

以前にこの詩を読んだ記事はこちら:

「名付け」や「生活」の枠を飛び出してどこまでも飛んでいくような疾走感。
木下牧子作曲の合唱曲の印象も合わさり、この詩を読むたびに風を感じます。

ガッチリとした感想はおおむね前回で語り終えてしまったので、
今回は軽めにいきます。

扱いやすく小分けにされるのを拒むこの作品。
先日読んだ石垣りん「表札」と同じものを根底に感じます。
自分自身のありようは自分で決めるという決意や、
他人から与えられた「居場所」「名前」に真っ向から立ち向かう自律。

振り返ってみれば、私のなかにも既存のラベリングへの抵抗がありました。
誰かのことを「友達」と呼ぶのにためらいがあるのです。
「家族」「恋人」といった関係性はある程度客観的な判断基準なり、その関係へ至るプロセスなりが分かるので、しかるべき人のことはスムーズにそう呼べるのですが、
「友達」は主観的であいまいで難しいです。
つきあいが長く深くなればなるほど、友達という、通り一遍の言葉でさらりとくくるのはふさわしくないようにも思えてしまって。

「一緒におでかけしてる」「週末におしゃべり」「作品をオススメしあってる」といった具体的な行動であったり、
「隣にいると落ち着く」「元気が出る笑顔」「親身に話を聞いてくれる」といった私からの気持ちであったり、
そういうことはいくらでも語れるのですが。

「友達」だから一緒にいるんじゃなくて、
「あなた」だから一緒にいるわけなのです。
「友達」という一種の肩書は、私とあなた以外の第三者が出てきて初めて必要になる概念なのですね。
ふたりの人間のつながりを表すための言葉は、ふたりきりのときにはいらないのです。

話は変わりますが、「わたしは羽撃き」が格好良くて好きです。
いかにも力強く高く早く突き抜けていくような。
Sound Horizon を連想し、次いで「進撃の巨人」につながりました。

完結したとの話を聞き、ならばとようやく最近手を出しました。
壁の中に囚われた人類の一部が、まだ見ぬ真理や新しいものを求めて
巨人の蔓延る外へ飛び出す。
作中のどこであっても「枠」「小分け」は人の生活、思想に大きな影響を及ぼしています。
いま30巻くらい読み進めたのですが、抗えない運命にじりじりと押し出されてきているような感覚で、続きが怖い、でも読みたい……! とすっかり没頭してしまいました。
完結まで見届けたらまた最初から読み返すんです……。

彼らの見た世界が、私の見る世界が、本質的に広く自由でありますように。

お読みいただき、ありがとうございました。
来週は長田弘「世界は一冊の本」を読みます。

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