【しをよむ113】石垣りん「表札」——私は私自身を名付けた。

一週間に一編、詩を読んで感想など書いてみようと思います。

石垣りん「表札」

(田中和雄編『ポケット詩集』(童話社)より)

私の住む賃貸の集合住宅では、私を含め、ほとんどの部屋で表札を出していません。
建物の名前と部屋番号があれば十分。
自分自身はもちろん私の住むところを知っていますし、宅配の担当さんも郵便屋さんも住所があれば「私」宛の荷物や手紙を正しく届けてくれます。

実家や、近所の一軒家には表札が出ています。
表札とは「この場所で、名前を持つ存在として長く暮らしていく」という決意表明の一種なのかもしれません。
私にとって、今住んでいるところはなんとなく「仮住まい」という意識があります。
外や共用の廊下から見た姿はそっくりそのまま、中身だけすっぽりと入れ替えられるようにしておくという自由さを、表札を出さないことによって保っているのかもしれません。
もちろん表札を出さない理由の中には、防犯上などなどの世知辛いものもあったりしますが……。

もしも私が将来に一軒家を手に入れたとしたら、きっと表札を出したくなる気がします。
「ここわたしのいえ!」と、持ち物に名前を書くような感覚かもしれません。

今回の詩「表札」では、自分の住処、自分の居場所には自分で表札をかけること——と語られています。
そのメッセージは私にとっては本名の自分よりも「稲見晶」である自分にとって生々しく感じられました。

「稲見晶」は、小説や詩や短歌、俳句、この「しをよむ」シリーズなどを書きます。平沢進のライブの感想も書きます。
文章を書くだけではなく、ときどき朗読をしたりツイキャスをしたりします。
Twitter では気が向いたときに日常のことを呟き、お菓子や猫の写真を載せています。
文章も声も見せる日常も写真も全てひっくるめて「稲見晶」という存在なのです。

それから別名義で書いているものもあります。
ここしばらくはそっちの方が執筆文字数が多かったりするのですが、
向こうは作品の発表専用なので、今でも軸足は「稲見晶」と認識しています。

そんな感じで、どの名義でどのような活動をするか、どのような作品を発表するかは、私が自由に決めることです。
ペンネームなので名前さえも自由に決められます。
創作活動はこの詩でいうところの「精神の在り場所」に自分自身で名前をつけ、表札をかける行為にほかならないと感じます。

外から与えられた表札や肩書きではなく、自分自身で「精神の在り場所」を定めること。
以前に読んだ新川和江「わたしを束ねないで」とも共通する、
凛とした読後感が残ります。

お読みいただき、ありがとうございました。
来週は長田弘「言葉のダシのとりかた」を読みます。

当面、サポートいただいた額は医療機関へ寄付させていただきます。 どうしても稲見晶のおやつ代、本代、etc...に使わせたいという方は、サポート画面のメッセージにてその旨ご連絡くださいませ。