わたしのギラヴァンツ戦評|相模原 vs 北九州 : 第11節(2022/06/04)
はじめに
この記事を書く目的
筆者がサッカーを”観る”目を養いたい
戦術的な見方での楽しみも知ってもらえると嬉しい
お願い
筆者はただの素人サッカーファンです。多分に個人的見解が含まれますので、ご了承ください。「こんな見方もあるんだな〜」ぐらいに受け取ってもらえると嬉しいです。
観戦記録
入りからセットプレーで失点。
その後も同じようにセットプレーやクロスで失点し、相手の狙い通りといった内容だったのかもしれません。
2点を返したものの、勝ち点0で終えました。
気になったのはペナルティーエリア周りでのボールへのプレスの弱さ。この辺ももしかしたらスカウティングされてて、良いクロスを上げられる要因になったのかもしれません。
あとはポゼッションしている状態からボールを失った際の切り替えが数的にもスピード的にも低かったかなと。リスクを負って後方からパスを回していく以上は、この切り替えは北九州のサッカーにとってリスク管理の点で重要でしょう。いわば「守りながら攻める」という位置的優位性も含めて改善していく必要があるのかもしれません。
応援するな。闘え。
もう内容に何も感じなくなってきたので、戦略的なところは今節では深く言及しません。
先日のサポカンでも現体制の維持が明言されましたし、私も含めて心が折れそうになっている(というよりももうほぼ折れている)サポーターに向けて、ここでは僕たちにできることを考えてみたいと思います。
世界のスタジアムにいるサポーターは「応援」をしているのではなく「一緒に戦っている」
「競争闘争理論 サッカーは『競う』べきか『闘う』べきか?」という本の著者である河内一馬氏の記事を引用しながらお話しします。
氏はこう言います。
これはサッカー先進国と日本との間でどちらが良いという話ではありませんし、ギラヴァンツのサポーターへの批判でもありません。
ただ、この指摘にはサポーターのチームへの向き合い方において、重要な示唆が含まれていると私は思います。
例えば、私が数年前にカンプ・ノウで試合観戦をした際はボール保持やゴールに向かうにつれて声援があり、相手ゴールへ向かっていく「試合の流れ」をプレイヤーに強いているような空気があるように感じました。
海外サッカーを映像で見ている方もこのような印象を受けることは多いのではないでしょうか?(ただし結果的に前がかりになりすぎて失点する場合もよく見かけるので良し悪しありますが…)
つまり、サッカーにおけるサポーターはゲームに影響を与える要素の一つとして闘うことができる。それがサッカーが生まれた国々では当然のこととして捉えられ、実践されているのです。
共に闘おう。
このように、私も思います。
サッカーにおいては、引用されている記事でも言及されているように「ファールへのアピール」や「テンポ」「リズム」といった要素でサポーターが非常に重要な役割を担っています。(この点に関する詳説は引用記事に譲ります)
「応援」してしまっているサポーターは何もギラヴァンツに限らず、日本サッカー共通の病理なのかもしれません。
しかし私はこの認識がギラヴァンツサポーターの間で共通認識として作られ、ホームでは文字通り「共に闘える」空間を作りたいと思っています。
ULTRASの皆さんは太鼓でリズムやテンポを作ってくれています。私はどんな状況でも闘ってきてくださった彼らをリスペクトしています。(先日の鹿児島戦で太鼓を止めたのは彼らが「応援」ではなく「闘っている」という証拠だと私は思います)
声援はまだ出せません。ただその中でも、僕たちサポーター一人一人も「闘う」意志をもって抗議やアクションで勝利へのリズムを作れるのではないかと思うのです。
最後に
現体制を維持していくとの判断は、私は反対です。
ただそれが決定だというのなら私にできるのは、共に闘い、勝利に向けてゲームを動かすことなんだと。(抗議幕という手もありますが)
そう思いながら、またゴール裏へ向かいます。
参考文献
引用させていただいた記事に関する議論も含めて、著者の考えはこちらの書籍にまとめられています。サッカー協会やらギラヴァンツ関係者に配って回りたいぐらいおすすめの本なのでぜひ手に取ってみてください。
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