観測者がいない、という意味
これからだんだん涼しくなってくる(はず)なので、ちょっと哲学的な話。
よく小説などで、「そして誰もいなくなった」とか、「アマゾンの誰もいない未開の地」とか出てくるが、客観的な表現方法をつかっていいならばその状況が読み手には理解できる。ただし、「誰もいない」ということを哲学的に深く考えるとたちまちよくわからなくなる。
つまり、自分も含めて「誰もいない」状況のことをいっているならば、例えば、宇宙の最後で宇宙すらなくなろうとしている状況を想定してみると、自分も含めて物理的に完全に誰もいない状況になっているのだが、誰も実在していない状況を、その虚空の状況を理解できてしまう。なぜか。
つまり、観測者は不要なのだ。何かを語るとき、理解するとき、観測者は必要ない。人は必要ではなく、言葉であったり、数学であったり、さえあれば語りつくせる。「光あれ」といったならば、それを言う前から”言葉”があったことになる、ということと同じだ。
こんなことをいうと、現代の量子力学の観測理論と矛盾するという方もいらっしゃるとおもうが、我々は量子力学の何を理解しているのだろうか?
※初稿:2021/6/15
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