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時間についてー変分原理、微分方程式

「時間」をテーマにした映画は数多くある。特に、クリストファー・ノーラン監督のSFは秀逸だ。ここでは、ドゥニ・ヴィルヌーヴ監督の映画「邦題:メッセージ(原題:Arrival)」について考察したい。こうした考察は、他の方もなされているので興味があればそちらも読んでみてください(リンク先)。ちなみに、それを読んだあとにこれを書いたわけではなく、同じようなことを考えている人がいるかな、と検索したら出てきた、ということですので、あしからず。
原作のはじめに「変分原理に対する興味から生まれた」とあるようだ。「変分原理」これは、「最小作用の原理」ともいう。物理の詳細には踏み入れないが、”作用”という量が最小になるように物体が運動する、程度を理解しておけば問題ない。で、最小になるような運動について解くと、結局、普段見慣れたニュートン方程式(オイラー・ラグランジュ方程式)が得られる。ここで問題なのが、”時間”だ。
映画で例えるならば、ある人の一生を誕生から死まで記録し、それをみることができ、どういう人生を歩んできたのかがわかる、というのが変分原理の式の積分が実行された結果、ということに対応する。記録映画の中の”時間”はすでに起こってしまっている時間であり、それをみている現実の人はまた別の時間軸の中で映画を観ていることになる。すでに起こってしまっている時間以外に、それについて解かれた後にでてくる時間に関する微分方程式にも”時間”が入っており、その時間軸では、初期値を与えたあと、刻一刻と変化する時系列の結果が得られえていくことになる。つまり、「まだ起こってしまっていない」未来へ、刻一刻と時間がきざまれていく、イメージだ。ただし、未来とはいっても、すでに時間について解かれた後に出てきた方程式なので、終点もわかっているし、その途中にどこにいるかも原理的に”わかってしまっていて”、あたかも”これから起こる”ようにみえている、ということだ。”未来”にもかかわらず、すでに”わかってしまっている”とはどういうことか。

映画の中のストーリーで考えてみる。中国の将軍の電話番号を知るシーンだが、これは、未来に問題が解決した後、セレモニーで集まった際に将軍から主人公が聞く、という状況(未来)がある。つまり、未来にならない限り電話番号はわからない。一方、現在の主人公の頭に浮かんだその未来の状況を知ることによって、未来にならないとわからない情報を現時点で知ることができてしまう、というトートロジーが生じている(ようにみえる)。電話番号が手に入らなければ、問題が解決せず、従ってセレモニーも行われず、将軍との出会いもない。そして、さらにトートロジーなのは、未来の状況で将軍から電話番号を聞くシーンでは、”初めて”そこで番号を聞く、ということになっている。未来で初めて聞く、ということになれば、問題が発生している”過去”では電話番号を知っていなかったことになり、電話番号を知らなければ、問題が解決されず、セレモニーもなく、将軍との出会いもない、ということになってしまう。トートロジーになってしまっているのは、時間をめぐる因果律がこんがらがっているからだ。

問題は、同時にどちらも考えるから問題になるのであり、微分方程式に従って運動するほうの時間軸の世界は考えない、という立場に立てばよい。未来に電話番号を聞き出す状況がある。電話番号が聞き出せれば、問題が解決する状況がある。原因が結果を生み、さらにその結果が原因になり、また結果を生む、という刻一刻と変化していく因果律に基づく時系列を捨てて、未来も過去も、現在も”在る”ものであって、そういう状況が在ることを知ることができる、ということに尽きる。

わけのわからない理論なり、式なり、概念なりを持ち出して、誰も理解できないような創作物をつくっても面白くもないし、相手にされないだけ。例えば、普段負の量にはならないエネルギーだの、質量だの、面積だのそういうものに”負”があり、負(マイナス)になっているとこれこれこういうことが起こってもよい、とか考えるのは勝手だが、おそらく理解不可能な何かにしかならないだろう。

ただし、人間に見えるものだけが実在していて、みえるものだけが理解できる、というのは人間のエゴというか、愚かさをさらしているに過ぎない。宇宙がどうなっているか本当に知りたいのなら、人間の殻を脱ぎ捨てて、純粋に宇宙に問いかけなければならない。


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