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オープンなひとへの憧れは正直ある

ブログとかTwitterとか、何度か手を出したことはあるんだけどいつも早々に飽きる。
自己開示欲求みたいなのが足りてないんじゃないかと思う。

リアルな生活でも友達とかに自分のことを話すのが苦手だし、映画とか小説とか漫画とか、面白い、あるいはつまらないと思ってもそれを誰かとシェアしたいっていう欲求がない。
あるいは苦手なのでしたくない。

ちなみに秘密主義に近いのかなと思って調べてみたこともあったけど、それはあんまりしっくりこなかったな。

思ったことを口頭で言語化するのは苦手の苦痛が大きすぎるので論外としても、文字を書くのは好き。
それでも言語化した感情は、生まれたままの姿のそれよりも一段、確実に価値が下がる。

って長年ずっと思ってたんだけど、数ヶ月前に某芸人さんが昔同じことを言ってたってラジオで聞いて、おお、やっぱそうだよね!!?って確信を深めてしまった。

私的な日記やメモなら、この感情をできる限りそのまま言語で写しとることだけを考えればいい。
でも公にするとなると、それ以外のことも考慮して言葉を選ばなきゃいけないから、余計に遠ざかっていく。

原石と宝石、どちらの価値が高いかって話では多分ない。
もっとこう、根源的な。
次元がひとつ減るような喪失。

唯一の例外は母親。
実家を出てからもう長いし、頻繁に連絡を取る性格でもないし実際にあまり連絡は取らないけど、帰省してふと気がつくと、最近あったこととか友達と遊んだこととか延々と報告してる。

小さい子供が幼稚園であったことを逐一お母さんに報告する、まんまそれ。

実家に住んでた10代の頃も確実にそうだった記憶があるし、この歳になっても変わらないってことは多分一生、ねぇねぇお母さん聞いて!ってやってるんだろうな。

友達と遊んだ話をするのは、ちゃんと友達いるんだよ、外で人間関係築けてるんだよって、知らせて安心して欲しいみたいなとこも結構ある。
ちゃんと報告しないと心配されかねない自覚があるし、実際ギリギリだし。

でも結局また、気まぐれにnoteを始めた訳で。
何でなんだろう。

公にすることを前提に書かないと意識しない何かや、浮かばない言葉はきっとたくさんある。
私的なメモ、書き殴りとは違う脳みそを使ってる感じがあるもんね。

言語はたぶんきっと、誰かに何かを伝えるために生まれたんだろうしなぁ。
まぁ、生まれた理由がそれの価値とは限らないけど。

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