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平常心であることが、生きることの極意なのかもしれない。

昨日Instagramのストーリーで

「平常心とは、感情を楽しむ心だ」

ってことを書いたら、

「メルマガで解説ありますか?」

とDMをいただいたので、今日は

「平常心」

について考えてみたいと思います。

まず「平常心」というのは、

「フラットな心」

のことです。

しかしそれでは分かりにくい。

ので、言い換えてみると、

「感情に振り回されていない状態」

のことです。

それは

「感情を観察できている状態」

です。

つまり

「怒ってモノを投げる」
「怒って、怒鳴ってしまう」
「悲しくて、何も手につかない」
「さみしくて、お金やセックスやアルコールに依存してしまう」
「焦って、ラクに稼げそうな詐欺に引っかかってしまう」

などは、

「感情を観察できていない状態」であり、
「感情に振り回されている状態」であり、
「感情の奴隷になっている状態」と言えます。

これを平常心の対義語として「クセ状態」と呼びましょう。

冷静な判断ができなくなって、反射的に行動してしまう状態ですね。

これは仏教などで「苦」と呼ばれている状態かと思います。

「思い通りにならなくて苦しい」
「やりたくないのに、ついやっちゃう」
「やらなきゃいけないのに、なんかできない」

という状態です。

コントロールされ、制御され、振り回される状態です。

ぼくも含め、誰しもがこの状態に陥ってしまうことがあります。

「平常心」というのは、その反対の状態です。

「感情を”観察”している状態」

のことです。

「ああ、わたし、怒ってる」
「ああ、おれ、悲しいんだ、さみしいんだ」
「あ、いま焦ってるな」

と「感情に気づく」ことが出来ている状態です。

これは感情を

「認めている」
「ゆるしている」
「受け入れている」

という状態であると言えます。

この状態のとき、こころの中には

「2つのこころ」

があります。

ひとつは「怒り、悲しみ、さみしさ」などの感情

それともう一つ、「それを観察し、感情に気づいている意識」です。

平常心の2つの心

この「2つがどっちもある」というのが「平常心」と考えています。

これは「人間」としての「感情」を味わい、愉しむと同時に、

「天、神、魂」などの大きな視点から

「まぁまぁ、そんなこともあるよね」

と器広く、悠々と構えているということです。

ぼくらは「悲しいこと」は、基本的には好きではありません。

けれども、シェイクスピアの「悲劇」のように

「悲しみを愉しむ」

という心も、持ち合わせています。

つまり、

「じぶんのことをドラマの主人公と思えば、色んな感情を愉しめる」

ということです。

その視点があることで、

「感情にドはまりしてしまう」
「感情に振り回されてしまう」
「感情のトリコになってしまう」
「感情という猛獣が暴れまわってしまう」

ということが減ってくるわけです。

とはいえ「平常心」の道は果てしないので、

そんなカンタンに感情を受け入れられるわけではないのも分かっています。

けれども、この観点や考え方を知っておくだけでも、

「感情のアリ地獄にハマってしまう」

ことは減っていくのではないかと思います。

このあたりも「他者との対話」から

「それって、感情のアリ地獄スパイラルにハマってない?」

と指摘してもらうことで抜け出すのが早くなりますね♪

「感情の沼」にハマっちゃうと、

1人で抜け出るのは容易ではないですからね。

他にも、「平常心」を深めていくには、こんな方法もあります。

このあたりは、また別記事で解説していきますネ♪

他にもYouTubeでも、いろいろ解説しています(^_-)-☆


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