すべての文章は訂正される運命にある。訂正可能性の哲学を事前に考える。

題名通り。社会人らしく結論から書きますか。

結論:結局のところ、すべての文章は訂正される運命にある。

なぜこんなことを書くのかと言うとこの本を買ったから。

ちなみにまだ読んでない。買っただけ。

こうゆう難しい本は腰を据えないと読めないところがあり、これだ、というタイミングが来るまでは大抵本棚の(僕の場合はkindle)の肥やしになっている。

なぜ読む前にこんな感想もどきを書くのかと言うと、やはり本を読んでしまっては、自分の考え方がどうしても本に寄ってしまうからだ。考えが寄ってしまうと、感想も完全にフラットになり得ない。
だから事前に本の内容を予想、ないし想像、創造することによって、自分の中に元々あったフラットな考えも残しておく。

↑の考え方は哲学で言われているような【本当に哲学をしたいなら哲学書を読むな】的な主張に似ているなと思った。誰が言ってたかは忘れた。
ちなみに理由は、ある哲学書を読むとその考え方に寄ってしまうから、だそうです。ほんまかいな。

ともかく現代社会においての【訂正】について思うことをつらつらと書き、書いた後に本を読んで、その差異を楽しもう!という塩梅である。
一粒で二度おいしい、的な。

まず、題名だけで予想するのもあれなので、Amazonの紹介文だけは読んでおく。以下、引用。

正しいことしか許されない時代に、「誤る」ことの価値を考える。世界を覆う分断と人工知能の幻想を乗り越えるためには、「訂正可能性」に開かれることが必要だ。ウィトゲンシュタインを、ルソーを、ドストエフスキーを、アーレントを新たに読み替え、ビッグデータからこぼれ落ちる「私」の固有性をすくい出す。ベストセラー『観光客の哲学』をさらに先に進める、著者30年の到達点。

Amazon.comより引用

おお、なんか面白そうだ。
正しいことしか許されない時代に誤ることの価値を考える。という文章からして、なんか面白そうな雰囲気が漂っている。

「ただしいことしか許されない時代」

なんとなくわかる。どんどん間違っていこうぜ、みたいな寛容な雰囲気があるふりをして、日本社会は間違うことに不寛容だなぁ、と思うことが多い。とくにSNSとかね。

そもそも論として、たいていの文章は、訂正・修正されることを避けることができないのだから、【初稿は誤りがあること】は前提のはずだ。
(※訂正と修正は厳密には違うけれど、めんどくさいのでほぼ同じ意味【間違っている箇所を直す】として使う)


幸い、僕が働いている会社は間違えに寛容である。(少なくとも資料とかに関しては)
だから完成度が60%ぐらいでもいいからとりあえず完成させよう。提出しよう。というように教えられる。
理由は簡単で、以下、例。

資料をつくっていたとする。100%のときに渡して、仮にそれがダメダメだった場合、最初からやりなおしになる。そうしたら、それまでの作業がかなりの量、無駄になる。そうした無駄をできるだけ省いて完成までもっていくために、できるだけ早く完成度50%ぐらいまでもっていき、レビューを貰って修正し、100%にもっていく。

完成度というものは100%に近づくほど伸び率が鈍化する。完成度40%を50%にするのは簡単だけど80%を90%にするのは難しい。
学校のテストと同じだね!

誤ることによってはじめて、人間は、正しいものがなぜ正しいのか理解できるようになるんだ。だからどんどん軽率に間違って、それを訂正・修正する作業を繰り返すべきなのだけれど、現実問題としてそうもいかない。時間的制約や、社会的制約があるから。

時間的制約はそのまんま、締切。
社会的制約はちょっと難しい。たとえばプライド、たとえば立場。

こう考えると、とくに社会的制約が曲者だ。早く見せなければいけない。だけど、最初から完成度の高いものをみせたい。というプライドもある。
しかし、前述したように、最初から完成度の高いものをみせるのは至難の業だ。おまけに時間をかければかけるほど雪だるま式に完成度への期待が膨れ上がっていく。よけいに現状の未完成さに不安がでてきて、見せることができなくなる。悪循環が生まれる。

無理やり文学につなげて考える

修正・訂正について、じゃあ文学はどうだろうか。(無理やり文学につなげて考えてみる)
先日、高橋源一郎が書いた本を読んだ。

この本には、修正されることが無かった小説の文章が乗っている。一発書きの文章。つまり、ほぼ原文のままで文芸誌に乗ったということで……まぁ、正確には【ほとんど修正がない】だけど、細かい点は置いておこうかな。

とゆうか、プロの作家(小説によってお金をもらっている作家)には、こうゆう一発書きタイプが少なくないらしい。すごい!って思う。僕はとてもじゃないが一発書きで良い文章を書ける気がしないです。

さて、高橋源一郎先生の書き方は【考えないで書くこと】とは異なる。ちゃんと考えて書いているけど、考えてない、みたいな文章を書くところに憧れがある。ちなみに考えてない文章は↓

↑このシュルレアリスム宣言は、自動記述といって、考えずにつらつらと書いていく手法をとっている。これも小説って言っていいのだ、という文学のおおらかさを感じる。

ぶっちゃけ、この本はなかなか面白さを理解するのが難しかった。正直に書くと面白くない。僕は芸術の素養があまりないのかもしれない。
良さを直感的に感じることができないのだ。結局読むのに一か月ほどかかったし、内容なんて今となっては全然覚えていない。

僕は小説を通して、何かに納得したい。その納得したい何か、はいま探している最中だけれど、この小説には、僕を納得させてくれる何が無かったor見つけることができなかったのだと思う。

読み直せば違う感想が生まれるかもしれない。(こうゆう本の面白いところは、同じ内容のはずなのに、しばらくたつと全然違う内容が書いてあるように感じることだ)

読まれる相手がいるのに修正されない文章というものは、僕からすると、とても不思議な存在である。おそらく僕の中に【小説】というものに対するスキーマがあり、それが邪魔をしている?

小説らしさ、を打ち破って、自分の中にある小説を広げていきたいけれど、どうやって広げればいいんだ? そのきっかけが「訂正可能性の哲学」にあればいいけれど。絶対この本、そうゆう本じゃないよ!

いつもどおり無理やり締め

なんか本論からどんどん遠ざかっていったような。
書くことによって思考が発展していっているのかもしれない。
僕はこの文章を大らかな気持ちで書いている。読み直した時に案外面白い文章になっているかも?

もちろん、これまでに僕が書いた文章の全ては訂正される運命にある。
ただ、めんどくさいので、今のところする予定はない。
これは自分のための文章でもあるからだ。

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