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「えっ、小説ってそうだったの?」脚本家が小説を書いて知ること <その1>

 二冊目の小説『パラレル・パスポート』を書きました。今回の記事では「脚本家が小説を書いて、なるほど、小説とはそういうものか」と気付くことについて書きます。脚本、小説、それぞれを書こうとする人にとって何か参考になればと思います。

地の文って何?

 脚本家が小説を書くとき、一番思うのが「小説の地の文って何?」ということでしょう。脚本は「シーンの柱」「セリフ」「ト書き」の三つの要素で書かれています。ト書きは人物の動きや表情、その場の状況など目に見えるものを簡潔に書くもので、映像に映らないことは書いてはいけないというルールがあります。なぜ映像に映らないことを書いてはいけないかというと、例えば「そのとき花子の心には太郎への愛が広がった」と書いても、映像にはただそこにいる花子が映るだけで、彼女の心に何があるかは観客にはわからないままだからです。作者は「書いた」と思っても、観客はそのことを知らないまま作品が進行してしまいます。
 だから脚本では表面に見えないことは何らかの形で観客にわかってもらう工夫が必要になります。花子が太郎を好きなら、単純に「好き」と言うか、日記にそう書くところを見せるなどすればよいのですが、それでは説明的で面白くないので、脚本家は「表現」する方法を考えます。例えば太郎が脱いだ上着をそっと畳んでやる花子を描写すれば、少なくとも好意を持っていることはわかるわけです。
 でも小説の地の文は、人の心の中を好きなだけ書いていいのです。「好きなだけと言っても、書きすぎると説明っぽくなるんじゃないの?」などと脚本家は迷うわけです。そしておっかなびっくり書いてみながら試行錯誤します。地の文をどんなふうにどのくらい書くかという基準はなく、「これ以上書くとまどろっこしいだろう」というような感覚との相談になります。
 そして、脚本のト書きは美文である必要は全くなく、簡潔にわかりやすく書くことを求められますが、小説の地の文では作家の文章のセンスが問われます。「純文学を書いているわけではないので、そんなに気にする必要はないですよ」と編集者は言ってくれますが、あまりに味も素っ気もない文だと読者が飽きるだろうなあと思い、あれこれ工夫しました。

時間と場所の自由さ

 それから小説を書き始めた脚本家が「小説ってそうなんだ」と気付くのは、「時間や場所があっちこっち飛んでも意外に平気」ということです。それはこういうことです。例えばAとBが会話をしていて、その場にいないCの話題になるとします。そのとき地の文で「Aは昨日Cと会ったことを思いだした。そのときCは『Bなんか嫌いだ』と言った。そんなことはBには言えない」と書いたとします。小説の表現としては問題ありません(文章の良し悪しは今は無視してください)。
 同じことを脚本でやろうとすると、回想シーンを立てて、CがAに『Bなんか嫌いだ』と言う場面を描写する必要があります。そうでないなら、AがBに「昨日Cがお前のことを嫌いだと言ってたぞ」などと言うことになるのですが、Bに対してそれは言いにくいとなるとやはり回想で描く必要がでてきます。(または別の人物Dがいれば、こっそりDだけに言うことにするとか)
 つまり脚本では「これはいつ、どこで起こったことか」を明確にする必要があるのです。小説だと、ふと思い出したことをそのまま地の文で現在のことに混ぜて書くことができます。「ここは回想シーンですよ」と明確に区別しなくてもいいのです。
 また小説だと「Aは急いで会社に向かった」と書いても問題ありませんが、脚本の場合、Aが急いで会社に向かうシーンをどんなふうに描写するのか考える必要があります。Aが走っているシーンを入れるのか、その場所は、道なのか、それとも駅に駆け込むようなシーンなのか。または、会社に急いで駆け込む描写をすることで道中のシーンは省略するのか。
 脚本でこういうことを考える必要があるのは、脚本が常に映像化を前提に書かれるからです。道を走るシーンを書けば、スタッフはどこの道にするかロケハンをして撮影をしに行く必要があります。撮影が難しい場所は書くのを避けたりします。だから「小説ってなんだか自由だなあ」と感じる瞬間はけっこうありました。

人称という制約

 一方、小説には脚本にない制約もあります。それは「人称」です。「私は××した」と一人称で書くのか。「彼は××した」と三人称で書くのか。ひとつながりの文章の中で人称が混在すると読者は混乱します(章替えなど、区切りのあるところで人称が変わるのはありです)。脚本の場合は、視点は基本的に「客観視点」=「神の視点」ということになります。観客はカメラが誰の視点なのかを意識することはありません。(人物の「見た目(主観映像)」になることはありますが、ごく一部です)
 しかし脚本の場合も「一人称的」ということはあります。ストーリーが主人公だけをずっと追い続け、主人公がいないシーンは描かないような作品では観客は一人称に近い感じを受けるでしょう。
 小説でも文章は三人称だけど主人公だけを追えば一人称的な印象になることはあります。僕の小説は一冊目の『ビンボーの女王』も今回の『パラレル・パスポート』もこれです。こういう作品の場合は、「Aは時間がないことに気付いた。急ごう。Aは走り出した」というように三人称の文の中に一人称的な文を入れてもさぼど違和感はなく、この方が文章にテンポが出る感じがします。僕は今回これをけっこうやりましたが、編集者から直しを言われなかったので大丈夫なのでしょう。

 今回は主にト書きと地の文の描写の違いについて書きました。次回は脚本と小説で本質的に描く内容に違いが出るのか、考えてみたいと思います。

『パラレル・パスポート』発売中です。よろしくお願いします。

一冊目の小説『ビンボーの女王』もよろしく。


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