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尾崎将也の<全部入り>脚本講座  [1]脚本とは何か、ドラマとは何か

(重複度4)※この章は無料です

 脚本を学ぶには、まず「脚本」と「ドラマ」の言葉の定義をそれぞれはっきり理解していることが必要です。

脚本はドラマの設計図

 脚本は、映画、テレビドラマ、演劇などを作るための「設計図」に相当するもので、「シーンの柱」「セリフ」「ト書き」の三つの要素が書かれています。ひとつの作品ごとに製本され、スタッフやキャストに配布されます。キャストはこれを読んでセリフを覚えたり演技プランを練ったりします。スタッフは撮影場所を決めたり、セットを建てたり、小道具を用意したりと色々な準備をします。そしてこれを元に本番の撮影(演劇は上演)に臨むのです。

 「脚本」「シナリオ」「台本」は大体同じ意味です。業界では「ホン」と呼ぶこともあり、脚本の打ち合わせを「本打ち」といいます。台本はどちらかというと印刷された冊子自体を指すことが多いですが、「台本を書く」という言い方をする場合もあるのでその区別は明確ではありません。

 俳優は脚本に書かれているセリフを覚えて演技をします。シーンの柱に指定されている「誰それの家」とか「公園」などの場所に基づいてスタッフは撮影する場所を決めます。ト書きに「帽子をかぶる」と書いてあれば、スタッフは小道具として帽子を用意し、俳優はそれをかぶる芝居をします。このように全ての映画、テレビドラマ、演劇などは脚本を元に作られます。設計図というのはそういう意味です。

 この設計図という感覚は、脚本を学ぶ人にはなかなかピンと来ないことかもしれません。自分が書いた作品が映像化されたり上演されたりすることがないため、自分が書いた脚本を元に作品が作られるという体験ができないからです。だから生徒が脚本を書くと、単に読み物として自分が書きたいことを書くということになりがちです。(※この講座では脚本を学ぶ人、脚本家志望の人全般を指して「生徒」と書きます)
 しかし映像化や上演の予定のない生徒の習作であっても、設計図として機能するものを目差す必要があります。読んで面白いものを書こうとするのは当然ですが、設計図として機能するものが書けるということも脚本が書けるということの重要な要素なのです。それについては今後この講座で折りに触れて書いて行くことになるでしょう。

ドラマという言葉の定義

 次にドラマという言葉についてです。ドラマには主に三つの意味があります。

<ジャンルの名称としての「ドラマ」>
 まずジャンルの名称としてのドラマです。ドラマと並列して、芸術や表現の形式にはどんなものがあるか列挙します。

①時間と関わるもの
ドラマ(映画、テレビドラマ、ラジオドラマ、演劇)、音楽、舞踏

②時間と関わらないもの
絵画、彫刻、写真、建築、文芸(小説、エッセイ、詩歌)、漫画

 「時間と関わる」とは、表現が時間の中に存在するということです。映画やテレビドラマは「二時間の映画」とか「一時間のテレビドラマ」などというように、時間の流れの中に表現が存在しています。音楽や舞踏も同じです。映画のDVDや音楽のCDは、それ自体は単なる物体でしかなく、それを機械にかけて再生して、映画や音楽が時間の中に流れ始めたときに表現がこの世に存在し始めます。これが「表現が時間の中に存在する」ということです。これらを「時間芸術」と呼ぶこともあります。
 一方、絵画、彫刻、小説などは時間と関係なく表現が存在しています。
 ここが小説と脚本が大きく違うところです。小説も脚本も紙の上に文字として存在するのは同じですが、小説はそれ自体で表現が完結しているのに対して、脚本はそれが映像化されたり上演されたりして、表現が時間の中に流れ始めることで初めて表現が完結するのです。
 もちろん脚本を読み物として読んで面白いと思ったり感動したりすることはあります。しかし脚本はあくまで映画やテレビドラマの設計図であり、表現が時間の中に存在するのだということを忘れてはいけません。
 生徒にとって、これは実感することが難しいかもしれません。自分が書いたものが映像化されることがなく、文字としてしか存在しないからです。それでも脚本を書く者は、今自分がやっていることが紙に文字を書くことであっても、最終的には時間の中で表現することを目差すものだということを意識しなくてはなりません。
 プロは自分が書いたものが映像化されて時間の中に流れるという経験をいつもしているので、当然のこととして意識しなくなります。生徒は映像化されないがゆえに、むしろそのことを強く意識する必要があるのです。それがちゃんとした脚本が書けることにつながるのです。

<「テレビドラマ」の略称としての「ドラマ」>
 人は日常会話の中で「ドラマより映画が好き」と言ったりします。この場合テレビドラマを略してドラマと言っているわけです。このように世間一般では「ドラマ=テレビドラマのこと」として言葉が流通しています。「昨日のドラマ見た?」などと言うとき、いちいち「昨日のテレビドラマ見た?」とは言いません。
 しかし実際は上に書いたように、映画も演劇もドラマという表現ジャンルの一部です。一般の人に「映画もドラマだ」と言えば、キョトンとして「え? 映画は映画。ドラマと別でしょ?」という答えが返ってくるでしょう。「ドラマ=テレビドラマ」が流通し過ぎて、「映画もドラマ」というのが一般の人の感覚にはないからです。しかし脚本を勉強しようとするなら、このへんをきちんと認識しておく必要があります。僕はテレビドラマを略してドラマと言わず、できるだけテレビドラマと言うようにしています。

<本質としてのドラマ>
 「本質としてのドラマ」と言われても、一瞬、何のことかわかりませんよね。
 脚本の習作を書いてプロに批評を受けたとき、「ドラマが弱い」とか「ドラマがない」とか「ドラマ性が薄い」などと言われるでしょう。そして作品を直すうちに「ドラマ性が出てきた」「ドラマになった」と言われたりします。
 つまりドラマは「ドラマになったり、ならなかったり」「ドラマ性があったり、なかったり」するものなのです。
 これは他のジャンルと大きく違うところです。例えば写真の場合、素人が撮った平凡なスナップ写真を見て「写真になってない」とか「写真性が薄い」などとは言いません。そもそも「写真性」という言葉を聞いたことがありません。それに対して「ドラマ性」はよく使う言葉です。
 これはどういうことかと言うと、ドラマがドラマであるための「本質」が何かあるということです。それがないと「ドラマにならない」「ドラマ性が薄い」などと言われるのです。つまりドラマには単にジャンルの名称だけでなく、言葉自体が本質を含んでいるのです。そしてその本質を理解するのはなかなか難しいことなのです。
 初心者の人に「ドラマ性とは何か」ということを今すぐ理解しろとは言いません。これからの勉強の中で学んでいくことです。現時点で認識しておいて欲しいのは、自分が学ぶべきことの中に「ドラマとは何か」「ドラマ性とは何か」という難しくかつ重要な事柄があるのだということです。


ドラマに必要な要素

 ではドラマが本質的にドラマになるために、まず最初に要求される要素とは何でしょうか。それは次の三つです。

①脚本の存在
②その脚本を元に人が演じる
③それを見る観客がいる

 当たり前のようですが、これらがあるからドラマというジャンルが成立するのだということを認識する必要があります。
 まず脚本の存在。作者が意図を持って書いた設計図があるということです。脚本のない即興劇もありますが、例外的なものです。
 それを人が演じるということ。アニメも絵にかかれた人物が動いて声優が声で演じるので同じことです。また「ライオン・キング」や「トイ・ストーリー」のように人間ではない動物やオモチャが主人公という場合も「擬人化」されたものなので人が演じるというのは同じです。
 そして観客の存在。ドラマ表現は、見る人がいるということを強く意識する表現形式です。例えば画家が絵を描くとき、どれくらい人に見せることを意識しているでしょうか。「これを展覧会に出して何人に見せたい」などと人数まで考えるでしょうか。それに対してドラマは人に見せることが大前提となります。演劇の幕を開けて、もし客席に誰もいなければ、「客がいないのにやっても仕方ない」と上演を中止するでしょう。
 ドラマというジャンルを作るのはお金がかかるということもあります。映画なら何億、テレビドラマでも何千万というお金がかかります。その資金を回収するためにも、観客の数を意識せざるを得ないということがあります。
 この三つの要素は、それさえあればドラマになるというより、ドラマがドラマになるための器みたいなものだと考えればいいでしょう。

 このような知識は、それを知っているから脚本が書けるというようなものではありません。しかし脚本を勉強する上で、ドラマとはどんなものか、脚本とはどんなものか、その言葉の定義を知っておかねばならないのは当然です。

 次回は、脚本を勉強するとはどういうことか、その難しさとは何かについて述べます。脚本の勉強は難しく、時間と手間がかかるものですが、何が難しいかを知れば、着実に前進できるという話です。



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