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「問題解決の糸口は散歩道に転がっている」

 2018/12/27 思考は全身運動であると思った

 初めて谷中ぎんざへ行ったとき、ここまで多くの観光客で溢れてはいなかった。そういう私も観光客のようなものである。

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 思考が行き詰まると、目的なく街を歩く。近所を歩くこともあれば、電車で少し移動してから歩くこともある。もしも仕事熱心な警察官に職務質問を受け、「どこへ行くのか。目的は何だ。」と問われても、私には具体的な行き先も目的もない。きっと答えに窮することであろう。

 千駄木駅を出て、ドーナツ店の誘惑を振り切り、商店街に向かって歩く。まずは夕飯のお惣菜を選ばなければならない。食事は生命の本質に関わる問題であり、思考を支配するものである。したがって、これから考え事をしようとするときは、先にその日の食事を決めてしまった方が良い。

 「夕やけだんだん」を上ると、後ろを振り返る。ここで夕焼けが見られれば幸いであるが、この時期は日没が早いため、油断していると真っ暗である。

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 ここから先は思索する時間である。日中、読み物や考え事でカチカチになった頭は、歩いて解すのが良い。運動不足の解消、健康の促進にもつながるものである。そもそも、いつまでも机に噛り付いても、良い発想は舞い降りてこないし、目や腰が痛くなるばかりである。

 谷中霊園の手前で右に曲がる。そして、東京藝術大学、上野公園方面へ向かい、ひたすら歩く。そういえば、子どもの頃は、同級生とそれぞれが持ち寄った「怖い話」を語り合ったものであり、当時の子どもたちにとって、お墓は心霊スポットのレッテルを貼られていたが、今にして思えば何とも不謹慎な話である。

 この間、頭の中で絡まった問題は、少しずつ解されていく。そう言えば、私が学部の学生であった頃も、机に向かう勉強より、このように歩きながらその日学んだことを反芻する時間が長かったことを思い出す。

 そもそも、教科書に書かれている難解な概念を、私の頭で机上で理解しようとすることに無理がある。しかしながら、言うまでもなく机に向かう時間は一定量必要であり、それが足りなかったことは認めなくてはならない。今更ながら、深く反省したい。

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 上野公園に辿り着く頃には、心地よい疲労感が思考をクリアにする。しかし、ベンチに腰を掛けたり、立ち止まったりはしない。私の思考の発電装置は足であるのか、歩き続けないと、せっかく動き始めた思考が止まってしまう。

 数年勤めた職場を辞めた今夏は、よく繁華街を歩いていた。静かな場所より、人々の活気が溢れる場所が好きであった。そして、歩いた後にはカフェで休憩を取り、小難しい本と睨めっこをしていた。ここ最近とは少し異なる。しかし、本質的にはあまり変わらないようにも思う。

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 上野はパンダで溢れている。右から左から、パンダの絵やぬいぐるみが視界に飛び込んでくる。私はパンダが大好きであるので、それを見て、トゲトゲした心が少し温かくなる。

 退職後、その数年間のキャリアを今後にどのように繋げるか、あるいは、全くまっさらな状態から新しいことを始めるか、ひたすらに模索していた。なにぶん、我が人生に羅針盤などないのであるから、自らを信じて決するしかない。

 結果的に、これまでのキャリアを基礎に新たな道に進むことを決意した。働いてきた数年間はこの散歩に擬えよう。ひたすら歩いて、人々を、景色を見て、辿り着いた結論である。

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 上野公園を過ぎて、帰り道を模索する。究極的には、どこの駅から電車に乗っても自宅には辿り着く。早いか遅いか、安いか高いかの違いである。

 上野か、秋葉原か、御茶ノ水か、神保町か、とりあえずの到着点を目指し、私の散歩道は更に続く。谷中銀座で買ったお惣菜は既に冷めていることであろう。帰ったら温め直そう。

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 ある資産運用の広告が、「君は100年生きる」と言っている。そうであるとすれば、私の人生はまだ長い。資産運用の広告を見て、業に思いを馳せる訳である。

 2018年を回顧するとともに、2019年に決意を込めて。

ここまでご覧頂いただきまして誠にありがとうございます。 大事なお時間に少々の笑顔をお届けできれば幸いです。