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サウナーと名乗るのをやめてみるか

最初に言っておくとサウナに飽きてしまったわけではない。
むしろ愛は深まって行くばかりだ。

もっと言うとサウナが好きと言うよりととのうことが好きだし、感覚の世界に入り浸るのが好きだし、点と点が結びつくのが好きだし、何も知らない人とひとつの共通言語で壁を飛び越えて繋がるのが好きだ。

このことを自認して行くにつれて、なんか最悪サウナでなくてもこの好きが体感出来れば別にいいんだな〜と思ってきた。
もちろんだからと言ってサウナに行かなくなるとかそういうことではなく。
でも現状その手段をサウナしか知らないってのは窮屈かもしれないし、もっとこうしたらいいんじゃないかな?を増やしていきたい。作っていきたいし、残したい。

そんな時に「サウナー」っていう表現に違和感が出てきた。
このサウナーの定義が明確に決まっているわけではないし、なんとなくサウナ好きな人は分かりやすいので使っている感じだ。実際サウナーなんですって言うと「あ、サウナ好きな人なんだ」ってのが一発で伝わって分かりやすい。

でもやっぱり、これは感覚的な話になってしまうけど、サウナが好きなことを消費してしまっているような気がする。
サウナ流行っている感が徐々に浸透している昨今。その潮流に乗ってサウナーと名乗ることで、メジャーになりかけているニッチジャンルに少し早く興味を示していた自分に陶酔してしまっている気がする。いや、きっとそうだ。

以前ある人に「おゆうは、サウナすぎる」と言われたことがある。
僕のSNSのプロフィールや発信内容を受けて出てきた言葉だ。
その時は理解と困惑が半々くらいだったが、今、完全に分かった。

サウナ好きなことそのものって、全面的に押し出すものではないんだろう。

もっと内側に浸透して血肉になっていくようなもの。
わざわざ高らかに公言するものではないもの。
人間の仕組みとして、全人類が教授できる人間の本質的な心地よさがと「ととのう」感覚であるならば、何も特別なことではない。

いいサウナ施設や最高のサウナ体験はコミュニケーションの1つにはなるが、もちろん押し付けるものではないし、あくまで副産物でしかない。
いつから好きという話や開拓したサウナの数も同様だ。

「サウナに入ると心地いい感覚が得られる」ということにたまたま気付けたかどうかでしかない。
「美味しいご飯を食べたら幸せを感じる」と同じレベルの感覚だ。
その感覚に気付いている人はわざわざ自分のことを「イーター」と高々に宣言しないし、周りも別に呼ばないだろう。

もちろん「美味しいご飯を食べたら幸せを感じる」ことよりもまだまだその感覚を享受できている人の母数は少ないので、出来るだけ多くの人に気付いてほしいし、そのために僕ができることはしていきたい。

ただ、やはりそこに「サウナー」という肩書きのようなものがくっついていると、何かサウナを好きになるためには条件のようなものがあったり、一定のラインがあるように感じてしまうだろう。誰もが享受しうる感覚に、少しでもハードルができてしまうことは全くもって健全ではない。
そんなつもりはないと思っていても、名乗っていることで無意識にそのような言葉が出てきてしまうだろうし、自分では気づかない壁を作ることになってしまうだろう。

だから、サウナーと名乗ることをやめてみよう。

一見分かりやすい肩書きが、本質的なことを分かりにくくしてしまっている。肩書きがいらないと思っているわけではなく、もっと手触り感のある自分の輪郭をしっかり表現する肩書きがきっとあるはずで。それは、自然と「これだ」って見つかるようなものだと思う。

あくまで、自分がこう感じているというだけで、他の人がサウナーと名乗っていることに良い悪いをつけたいわけではない。

自分にとっては名乗る名乗らないという結果はどうでもよく、そこに至るまでに気付いたことや視点が重要なのである。
この視点をもってして初めて、「じゃあ自分のサウナを作るなら」とか「良い文化にしていくにはどうすれば良いか」という話ができそうだし、そっちの方が面白そうだなぁと今は思っている。

このガツガツとサウナというコンテンツを消費するところから、全く逆の視点から考えてみる、この両極を行き来して、中道を見出すことが文化作りには必要なのだろうなぁ。

サウナに入って、水風呂に入って、ととのうように。


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