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サジェストされた世界から出よう

仕事がリモートワークになって久しい。
東京都で外出自粛要請が出てから、外にでることで身体にもたらされる抑揚のある日々が、14畳ほどの部屋の中で真っ平らに、滑らかに進んでいくようになった。窓枠を通して外を見ると、時折下船することを許された、潜水艦の中にいるような気分だ。

私自身の根が内向的なのも手伝って、すぐにその環境に順応し、かつての生活とは違うリズムを生み出せるようになった。通勤をすることで生まれるノイズを排除すると、日常の細かなところに目が行く。

例えば、もっと柔らかい布団で眠りたいから、布団を丁寧に干すとか、設営で余った大量の資材でベランダにウッドデッキをつくったり、身の丈に合わない母のブランド物の大量のお下がりを思い切って破棄したり、パートナーのお手製のカレーに、自分で調合したホールスパイスのチャイを添えたりするようになった。

「貝を捌いてみる」という、通勤をしていると中々越えられないハードルに挑戦することで、植物用の両刃の小刀で、捌けることだとか、処理の仕方を学ぶこともできた。
料理に関しては、今まで感覚的に行ってきたことを科学的に学び直したり、食べることで享受する刺激に対して向き合い、自分の好みや大衆的な好みと照らし合わせ、一つ一つ考え直すゆとりが生まれた。

サジェストされた世界と距離を置く

仕事の面では、出勤時間が0になることで、かなり集中できるようになり、ストレス解消もあって張り付くように眺めていたSNSから、うまく距離をとれるようになった。
広告の仕事をするようになって、思ったより私たちは「自分の意思で選択しているようでかなりサジェストされている」ことも多いのではないかと思うようになったし、「オンラインの世界ほど自分に都合の良い偏った情報ばかり収集するようになっているのではないか」と感じることが増えた。
Webサービスの使えるところは上手く使うけれど、受け取らなくてもいい情報にしつこく晒される必要はそもそもないのではないか。
完全にオンラインから遠ざかる訳ではなく「誰かに消費されない程度に」土日にはゆっくりしながら、ビジネスパートナーのアドバイスで毎月行うオンライン稽古とポートフォリオの構築を進めている。
自分とネットの上手い距離を見つけられた数ヶ月だった。

本当は嫌だった出費から距離を置く

家の中にいると老化の原因となる光に当たらなくいていいし、Zoomに連携できるSnapChatのオリジナルフィルターのおかげで、メイクもしなくていい。お世話になっている編集者さんにいただいた様々な化粧品があるおかげで、飾ることにお金をかけなくていいし、肌に負荷をかけることも減った。
何も進展しない会話や会いたくない人からくる何気ない連絡に振り回されなくなって、その分に割いていた美味しくもない料理やあまり気が進まないカフェ代を、こだわりを持って焙煎された豆や、かつてから飲みたかった玉露、料理の科学本、美味しいお茶を選んだり淹れられるようになる本、香りのクラス等興味関心のある学びに突っ込んでいる。
「見られる対象があることで着飾ることをしない」だけで、こんなにも楽しく生きられるのかと思うと、私はコロナが収束しても自分の心から動きたいと思うこと以外で、誰かに会いにいったり、家から出たくないと思うようになった。段々と感染者が減っていることは、各々の努力であり、大変喜ばしいことではある一方で、また出勤することになると思うとなんだか落ち着かない。

テキストで繋がり続けることを考える

先日、碧さんがふとおっしゃった「書いたことは認識されるなら、書かなかったことはだれからも認識されないのかも、と思うこの頃です。」という一言が妙に引っかかっている。
「書く」ということを、手紙を認めるでも本に載せるでもない時代に、どういう意図があっての言葉なのかに想像を巡らせてみる。
検索大手のGoogleのアップデートを繰り返し見ると思うのが、自然検索は公的機関と公式サイト、有名サイトにのみ流れるようになっていくのかなということ。
人が集まるところに流入し、より「権威主義的」になっていくのではないだろうか。(あんまり現実世界と変わらないような)
日々大量に投下されるテキストの中で、不特定多数の誰かの時間を消費するために、書くために自分の時間を消費する必要があるのかなというのが個人的な疑問として存在する。
「自らの生活や思想を不特定多数のオンラインに捧げない方が良いのではないか」という仮説が年々、濃厚になっていく。
少し前ならば、露出することが仕事に繋がったり、発言しない人よりもメリットが多かったように見受けられるが、今は露出することで、得られるメリットよりも、差別的な意見に晒されたり曲解され、事件に発展していたりする。(元テラハの木村花さんを一例にあげたい)
個人情報保護法の観点からも思想は、差別を生み出し兼ねないものとして扱われ、人種や病歴などと同等の要配慮個人情報に該当する。
自らの私生活を載せたテキストであったり、映像や写真が、公に向けて放つ時にどういう影響を及ぼすのか、よくよく考える必要があると思う。
話は戻って、人の認知の仕方は様々だし、テキストだけで認知していない人も世にいる訳なので「書いたことは認識されるなら、書かなかったことは、だれからも認識されない訳ではない。」
時折、自分の感覚を尺度にして、物事を考えてしまうことを改める必要はないか。(意図は違うのかもしれないけど)

あの頃と今とこの先

Nagatacho GRIDという年齢差や環境差をあまり感じさせない、IT特有のフラットな一つの拠点にいるときに近しいことで似通っていた思考が、
物理的な距離を持ち、段々と違う接触を繰り返すことで、大きな開きを生んでいることがお二人のテキストから見て取れる。
あの頃と比較して、若葉ちゃんからは、扉の間から顔をちらりと覗く子供のような秘めた無邪気さが浮き上がってきているように思うし、碧さんは、戦略的な意味で都市に適応する(擬態する)かのような蛸のようだと感じた。
お二人の近況をまた日記を通して拝見した時、掲げた目標が香り立って来るのを楽しみにしている。

因みに私は、2/17は来年に先送りすることが決まり、5/17は着手又は達成した。
加えて、大事にしたい人や、大事にしたい時間、維持するために考える時間も増えた。
新しいことを知ると、自分の発した意見に縛られ続けないことも重要で、言葉を加飾してしまうことで与えてしまう誤解は伝える側の配慮も必要であることを考えたりする。
できるだけ体験したことを伝え、嘘の情報を与えてしまわない様、言葉を正しく伝えることを心がけていきたい。

写真は上から、
クロード・レヴィ=ストロース『野生の思考』をイメージして。
捌いたアワビ。
5月に一輪だけ咲いていた椿。
突然変異種のレインボーメープルが白く半透明な様子。
貝以外は、いずれも大好きな植物園の甘い香りの中で。

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