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いつもぶつかる痛い壁の正体は私がつくった殻だった

私にはタトゥーがある。今の世の中そんな気にすることないと思うかも知れないけど、当事者としてはそうではない。体に模様があることにより立ち入り禁止の場所があるし、面接に落ちることもある。自分のせいだとは重々承知だけど、罪人のようにはじかれるのはやはりキツい。
江戸時代は罪人のしるしだったんだろうけど、今は令和なのです。どこからがオシャレでどこからが罪人なのか誰にもわからないから、全部罪人としてまとめられているのだと思う。

本名で生活している時は、人前でタトゥーを隠している。会社では全季節長袖だ。真夏でも長袖の人間は人の目に不自然に映るのだろう。あの人は腕を切り刻んでいるのでは?薬物注射の痕を隠しているのでは?などと噂される。ただ小さなタトゥーがあるだけなんだが。面倒なので説明せず放っておく。

隠すのはなぜなのか。
不良な人なんだと思われたくなくて。
入れた訳を聞かれたくなくて。
そもそも入れた動機が可笑し過ぎて。


タトゥーは自分でデザインし20歳の誕生日に入れた。完成した時は嬉しいとかじゃなくて、このタトゥーと張り合う気持ちだったし、むしろ憎んでいたし、とことんアンダーグラウンド勢として生き抜いてやるんだという変な決意もあった。

私の一部なのに邪魔だと思うことがたくさんある。正式な場では自分のセクシャリティよりも隠してしまう。でもたまにどっちの腕にあるのかすら忘れてしまう。意識したりしなかったり神出鬼没な存在だ。

入れた訳を誰にも言ったことはない。いつも適当にはぐらかしてきている。
今の私は、人生で偽ることをしないと約束する修行をしている。不妄語、不綺語、不悪口、不両舌。
お坊さんであるせんせは「口は禍のもとです」と言いました。
言うことも禍だけど言わないことの方が禍だと私は次第に感じてきた。後出しジャンケンは通用しない。詐欺師症候群とはもうおさらばしたい。

ある日、師にタトゥーがあることを告白した。
入れた訳を説明しようとすると、ビックリするくらい涙がでてしまった。まるで子供のように泣きじやっくりをした。言葉が出てこず、なんとかひねり出した。感情が昂まり過ぎるのを抑えたくて、なかなか心に近い言葉を選べなかった。端折りすぎて説明が足りなかったかも知れない。

先生は静かに深く頷いて聞いていた。
このシチュエーションはまさに駆け込み寺だ。
恥ずかしい。

ひとしきり涙と心の内をぶち撒けた後、少し冷静になり「私は僧侶になれますでしょうか。十字架の刺青がある人間に入門が許されますでしょうか」師に尋ねた。

「過去があるから今がある。あなたの全てがマルなんですよ」せんせは、これ以上ない程に輝く笑顔で頷いている。師のお寺のモットーは「ありのままの姿で照らされる」だ。すでに私は照らされていたのだ。薄い殻の中でしゃがみ込んでたのは私ひとりだった。


駆け込み寺から自転車で走り去っていく私は変だけど笑っていた。隠し事はキツい。だけどマル。ダメじゃない。全部マル。マルなんだ。ずっと叫んで走っていた。

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