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【治承~文治の内乱 vol.47】新田義重の参向

新田義重、頼朝のもとへ

治承じしょう4年(1180年)12月21日。この日、上野国こうずけのくに(今のほぼ群馬県)の新田義重にったよししげが頼朝のもとに参向しました。

以下はその時のことを記した『吾妻鏡あずまかがみ』の記事(『吾妻鏡』治承4年12月22日条〔部分〕)です。

22日庚子かのえね。新田義重は頼朝の召還に応じて参上した。しかし、むやみやたらと鎌倉に入ってはいけないとお達しがあったため、山内やまのうち(今の北鎌倉、鎌倉市山ノ内)のあたりに逗留した。
これは義重が軍勢を招き集めて上野国寺尾館に引き籠ったとの聞こえがあったためで、藤九郎盛長とうくろうもりなが安達あだち盛長)に命じて召還したものであった。
義重が弁明として言うことには、
「心中では決して逆らう気はございませんでしたが、国中で戦いが起こっている時に、軽々しく城を出るのは難しいと家人たちが諌めてきましたので、城を出ることを猶予しておりましたところ、今こうして呼び出しの命令を受けて大いに恐縮するところです」
盛長が特に取り成したので、頼朝も義重の弁明を聞き入れ、鎌倉へ入ることを許したという。

廿二日庚子。新田大炊助おおいのすけ入道上西じょうさい召しに依り参上す。しかるに左右無さうなう、鎌倉の中に入るべからざるの旨、仰せ遣はさるるの間、山内辺に逗留す。これ軍士等を招きあつめ、上野国寺尾館に引き籠るのよし風聞し、藤九郎とうくろう盛長に仰せてこれを召されわんぬ。上西ちんじ申してはく、心中更に異儀存ぜずといえども、国土闘戦有るの時、たやすく城を出で難きの由、家人等諫めを加ふに依り、猶予の処、今すでに此の命を預り、大いに恐畏すと云々。盛長ことに之を執り申す。仍つて聞こしし開かると云々。

『吾妻鏡』治承四年十二月二十二日条(部分)より

この記事によれば、どうやらこの時、頼朝の義重に対する態度は冷ややかなものだったようです。義重は頼朝の召喚に応じて鎌倉へやってきたのに入れてもらえず、頼朝腹心の藤九郎盛長(安達盛長)のとりなしでようやく鎌倉へ入れたというのです。

新田義重は源義家よしいえを祖父に持つ人物で、頼朝とは同じ血が流れる同族です(河内源氏かわちげんじ)。しかも、頼朝が勢力を伸ばし始めた北関東で代表的な武士の一人でもありました。

そんな義重が頼朝方へ加わったのですから、関東における頼朝の優位性は断然高まり、むしろ喜ぶべきことでした。しかし、頼朝は義重に冷ややかな態度を取ったのです。なぜでしょうか?

では、その辺を探るべく、これまでの義重について少し追ってみます。


これまでの義重の動き

京都の貴族・藤原忠親ただちか(中山忠親)が記した『山槐記さんかいき』の治承4年9月7日条にこんな記事があります。

7日丙辰ひのえたつ。天気晴れ。母の御忌日きじつのため観音寺の堂に向かった。前大相国さきのだいしょうこく(藤原忠雅ただまさ、忠親の兄)もお越しになった。また仁和寺にんなじ法印ほういんもお越しになられたという。そこで釈迦三尊しゃかさんぞんに法華経を捧げ、その導師を権律師ごんのりっし源実げんじつとした。さるの刻(15:00~17:00)に三条の邸宅へ帰ってきた。
(ところで)源実が言うことには、義朝の子が伊豆国を掠奪し、坂東の国の者たちがこれを追討してそのしゅうとを討ち取った。義朝の子においては箱根山に逃げ込んだと報告されているのを天台座主である明雲みょううんの住まいで聞いたという。このような話を聞いているうちに、義重入道〔故・義国の子〕が大相国(忠雅)に書状を送ってきた。その書状には、
「義朝の子が伊豆国を占領し、武田太郎が甲斐国を占領しました。義重は前右大将(宗盛)のもとにおり、今かの家(平家)に背く坂東の国々の家人らを追討するように命じられ、下向するところです」
とあった。

七日丙辰 天晴。母堂の御忌日に依り観音寺の堂に向かふ。前大相国渡らしめ給ふ。また仁和寺法印渡らると云々。仍って釈迦三尊に法花を捧げ、導師を権律師源実とす。申の剋の事三条に帰り畢んぬ。源実云はく、義朝の子伊豆を虜掠し、坂東の国の輩これを追討して舅男を伐ち取る。義朝の子に於いては箱根山に入り了んぬる由申し上ぐる由、座主〔明雲〕の房に於いて承る所なりてへり。かくの如くこれを示す間、義重入道〔故義国の子〕、書状を以て大相国に申して云はく、義朝の子伊豆国を領し、武田太郎甲斐国を領す。義重前右大将〔宗盛〕に在り、今彼の家宗に相乖く坂東国家人を追討すべき由仰せ下され、仍って下向する所なり。

『山槐記』治承四年九月七日条(部分)より

これによってわかるのは、義重は藤原忠雅ただまさ花山院かざんいん忠雅とも ※1)に仕えるとともに平宗盛むねもりにも仕えていて、風雲急を告げる坂東の抑えとして上野国に下向したということです。

つまり義重は平家方勢力として頼朝に同調した武士たちを討伐せよという任務を受けた存在だったのです。
しかし、義重は大庭景親のように近隣の勢力を糾合して反乱討伐軍を編成することはなかったようです。
『吾妻鏡』の治承4年9月30日条にはこのように記されています。

30日己卯つちのとう。新田義重は東国がいまだ決起していない時に、故陸奥守(源義家)の嫡孫ということから自立の志を抱いたので、武衛ぶえ(頼朝)が御書を送ったのにもかかわらず返事をしなかった。上野国寺尾城に引きこもって軍勢を集めた。

卅日己卯。新田大炊助源義重入道〔法名上西〕、東国いまだ一揆せざる時に臨み、故陸奥守〔義家〕の嫡孫を以て、自立の志を挿む間、武衛御書を遣はすといえども、返報能はず。上野国寺尾城に引き籠りて、軍兵を聚(あつ)む。

『吾妻鏡』治承四年九月三十日条(部分)より

このように義重は自らの所領の拠点である寺尾城(寺尾館 ※2)に籠り軍勢を集めるという、どちらかと言えば消極的な行動をとっています。

これについて菱沼一憲先生は、義重も河内源氏という血筋により、武家棟梁としての第三勢力を目指していたようだと『吾妻鏡』の記述を踏襲する見解を示され、坂東の情勢が定まらない中であえて旗色を鮮明にせず、日和見をしていたとも述べておられますが、果たしてそうだったのでしょうか?この時義重は反乱討伐より自分の所領の保全が喫緊の課題になっていた可能性があります。


義重は動くに動けなかった?

先ほどの『吾妻鏡』治承4年9月30日条には義重の記事とは別にもう一つの事柄が記されています。それが以下の文です。

また足利俊綱は平家方として、上野国府中の民家を焼き払った。これは源家(源氏方)に属している者たちが住んでいるためである。

また足利太郎俊綱平家の方人として、同国(上野国)府中の民居を焼払ふ。これ源家に属す輩居住せしむる故なり

『吾妻鏡』治承四年九月三十日条(部分)より

この足利俊綱(藤原俊綱)という人は下野国足利郡足利庄(今の栃木県足利市一帯)に拠点を持つ武士で、藤姓とうせい足利氏と呼ばれる氏族の代表的人物です。この当時、藤姓足利氏一族は下野国のみならず上野国にも多数分布して、その勢力は上野・下野両国にまたがっていました。

以前掲載したこちらの地図を再掲。参考までにどうぞ。
濃いピンクが藤姓足利氏の一族とその郎等です。

今回足利俊綱が焼き払ったのは上野国の府中(今の群馬県前橋市付近と推定)の民家で、彼もまた当時は平家の家人として、その地域の反乱勢力を攻撃したものだったかもしれませんが、この俊綱と義重はかねてより対立関係にあり、こうした俊綱の上野国での動きは義重にとって警戒すべきものだったと思われます。

そしてさらにもう一つの勢力が10月、西上野の多胡庄たごのしょう(今の群馬県高崎市吉井町多胡)に進出してきました(※3)。
源義仲の勢力です。

この義仲についてはまた改めてお話ししようと思いますが、義仲はこの頃東山道とうさんどう(※4)地域、とりわけ上野国や奥州に接続する下野国を勢力下に置きたい狙いがあったようで、上野国でも藤姓足利氏の一族の佐井さい氏(佐位氏)や那波なわ氏などといった武士が義仲陣営に加わっていて、これら国々の武士を糾合しようとしていたことがうかがえます。

さて、この義仲と義重の関係ですが、これまた同じ河内源氏ながら良いものとは言えませんでした。それというのも、かつて義仲の父・義賢よしかたは源義平よしひら(頼朝の異母兄)に討たれており(大蔵合戦)、その義平と手を組んでいたのが義重だったのです。

そんなことから、義重は上野国の東西で対立関係になっている勢力に挟まれ、なおかつ10月の上旬には頼朝も武蔵国の諸武士を糾合して、その勢力は急拡大していました。まさに義重は四面楚歌の状態に陥ってたことが考えられるのです。


苦渋の決断をした義重

富士川の戦いで平家主体の東国追討使を甲斐源氏と頼朝の鎌倉勢が撃退し、常陸国では頼朝が佐竹氏を北辺へ追いやったことにより、関東での反乱軍優勢の状況がさらに色濃くなりました。

そしてさらに同族(河内源氏義国流)である足利義兼あしかがよしかねや義重の息子である山名義範やまなよしのりが頼朝方に加わったこともあり、義重の孤立無援はもはや明らかな状況となったのです。

しかし、義重はまだ頼朝方へ加わる決断を下せません。そこには『吾妻鏡』の言うように義家の嫡孫という自負もあって頼朝に従いたくない気持ちがあったのかもしれませんが、それよりも義重が頼朝方に加わってしまうと、これまで京都で築き上げてきた人脈や地位を失う危険性が高かったと中世史家の須藤聡先生は指摘します。つまり、義重の在京性の強さが逆に次の時代へ移行する一つの障害になったというのです。

義重の京都での人脈など詳しいことはまた機会を改めてお話ししようと思いますが、義重の所領の保全は京都での活動によってなし得たところが大きく、とりわけ前に掲げた『山槐記』の記事に登場した藤原忠雅(花山院忠雅)は義重の主要な所領の一つである新田庄の領家(※5)であると同時に、義重の在京活動を支えた人物でした。

『天子摂関御影』の藤原忠雅〔wikipediaより拝借〕

忠雅は後白河院の近臣ながら、後白河院女御にょうご(※6)であった平滋子しげこ建春門院けんしゅんもんいん、清盛の義妹)の院司別当いんしべっとう(※7)を務めていたこともあって平家にも大変近しく、のちに太政大臣だいじょうだいじん(大相国)の地位にまで就いた京都の中央政界では大物の人物だったのです。

これだけの有力者ですので、そんな人物とのせっかくのコネクションを壊しかねないことはしたくなかったのでしょう。それゆえ、なかなか踏ん切りがつかなかったと捉えることもできます。

しかし、東国の情勢はそうした義重の姿勢を許してはくれませんでした。そして、義重は上野国衙と繋がりがあった可能性のある藤九郎盛長(安達盛長)の働きかけや息子の山名義範らの説得もあって、頼朝方へ加わる苦渋の決断をしたと考えられるのです。


なぜ頼朝は義重へ冷ややかな態度をとったのか?

ここで話が最初に戻りますが、これまでお話ししてきたように、義重が当初平家方の抑えとして下向してきたものの、次第に状況は厳しさを増す中で、なかなか頼朝方へ加わる決断ができずに時間をかけてしまったことが頼朝の冷ややかな態度に繋がったと見ることができますが、別の見方もあります。それは義重の河内源氏内における影響力の大きさがネックになったというものです。

須藤聡先生は以下の点を挙げて、義重の河内源氏内の影響力の大きさを示しておられます。

  • 義重は源義家の孫であることに加え、従五位下の地位を獲得していたことから、頼朝に匹敵する「貴種」としての資格を有していた。

  • 義重は東国各地の源氏と深い繋がりを有していた。保元ほうげん2年(1157年)に甲斐源氏の加賀美遠光かがみとおみつの元服に際し、加冠し烏帽子親となっている(「小笠原系図」❲『続群書類従』第五号下 ❳)

  • 源義光の孫二人は義重の子となっていたという。一人は平賀盛義ひらがもりよしの子・義澄よしずみ(平賀義信の弟)、もう一人は源実光さねみつの子・義隆よしたかで、ともに「新田判官代ほうがんだい」を名乗っている(『尊卑分脉そんぴぶんみゃく』第三篇 p.353)

このように、義重はどういう経緯かはわからないものの、河内源氏義光流と深い繋がりがあったようなのです。そんなことから義重は頼朝の立場を危うくする存在であったため、頼朝としてはここで立場をはっきりさせる必要があって、冷ややかな態度をとったと考えることもできます。

実際、義重は鎌倉政権下では新たな位階に叙されたり、また門葉もんよう(頼朝の一門格・河内源氏一族)とされた他の者のように受領ずりょう(国司)に補されたりすることなく、頼朝死後においてもずっと低い地位のまま留められることになりますが、それは頼朝や鎌倉政権の警戒が背景にあったと捉えられるのです。
(ただ、義重は当時源義家に一番近い血筋であったために敬意は払われていたようです。)


ということで、今回はここまでです。

今回は新田義重が頼朝方になった時のことに絞ってお話しさせていただきましたが、彼の在京中の人脈や彼の根本的な所領である新田庄や八幡庄のこと、また所領の経営などのもう少し詳しい話は改めて義重個人の紹介の際にさせていただこうと思います。

それでは最後までお読みいただきありがとうございました。

註)
※1・・・天治てんじ1年(1124年)~建久けんきゅう4年(1193年)。従三位じゅさんみ権中納言ごんのちゅうなごん藤原忠宗ただむねの二男で、母は参議さんぎ・藤原家保いえやすの女。左中将さちゅうじょう・美濃守・蔵人頭くろうどのとうなどを経て康治こうじ1年(1142年)従三位。久安きゅうあん元年(1145年)参議。権中納言・検非違使けびいし別当・権大納言を歴任ののち、応保おうほう1年(1161年)正二位、大納言。仁安にんあん2年(1167年)内大臣、翌年に従一位太政大臣。嘉応かおう2年(1170年)官を辞す。ということで、順調な昇進を重ねていましたが、とりわけ後白河院政期には後白河院近臣として急速に出世した方です。
※2・・・寺尾城(寺尾館)は新田庄内(群馬県太田市寺井)にあったとする説と八幡庄内(群馬県高崎市寺尾町)にあったとする説がありますが、八幡庄内にあったとする説が水陸交通の要衝という観点から有力なようです。この寺尾城は平時は居館として、戦時はバリケードなどを設けて城として機能したと考えられています。
※3・・・『吾妻鏡』治承4年10月13日条
※4・・・東山道は近江、美濃、信濃、上野、下野、陸奥の国々を通る五畿七道の一つで、行政区分としての東山道は沿線の国々に加え、飛騨と出羽を加えたものになります。平安末期は奥州へ通じる重要なルートとして物流や人的交流が盛んでした。
※5・・・開発領主(荘園を開発した人)が国司の圧迫から逃れるために中央の有力貴族や有力寺社に寄進するのですが、その荘園の領有権を持った貴族や寺社を指します。ちなみに、この領家がさらに上位の有力者(皇族や摂関家など)に寄進すると、その寄進された上級領主は本家と呼ばれます。
※6...にょうご。天皇の妻です。位の高い順に皇后・中宮、女御、更衣となります。
※7...上皇や女院の直属機関として設置された院庁(所務・雑務を行う役所)の最高責任者。この場合は建春門院(平滋子)の院庁の最高責任者。

(参考)
須藤聡「平安末期清和源氏義国流の在京活動」
須藤聡「北関東の武士団」
(田中大喜編『上野新田氏』シリーズ・中世関東武士の研究 第3巻 戎光祥出版 2011年 所収)
久保田順一『新田義重-北関東の治承・寿永内乱』中世武士選書18 戎光祥出版 2013年
菱沼一憲『源頼朝-鎌倉幕府草創への道』中世武士選書38 戎光祥出版 2017年
野口実『源氏と坂東武士』歴史文化ライブラリー234 吉川弘文館 2007年

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