【治承~文治の内乱 vol.30】 頼朝の鎌倉入り
畠山重忠の参陣
頼朝勢に江戸重長が加わり、武蔵国府制圧も果たされた今、いよいよ決断を迫られている武士がいました。畠山重忠です。
重忠は父親である畠山重能と叔父の小山田有重が在京中で平家のもとにいるため、ここで頼朝に味方してしまうと父と叔父の身が危うくなってしまい、他方、ここで頼朝に味方しなければもはや大軍となった頼朝勢に討ち滅ぼされてしまうかもしれないという難しい状況に追い込まれたのです。
『平家物語』には、重忠が乳人(重忠の守役もしくは乳母の夫)である榛沢成清に今後の対応を尋ね、頼朝に味方することを決断した場面が描かれています。以下は『延慶本平家物語』の当該部分の現代語訳です。
重忠は成清を呼んで尋ねました。
「今の坂東の情勢、どうしたらよいのかわからぬ。父の庄司(重能)、叔父である小山田の別当(有重)は六波羅(平家の本拠地)におり、余所(頼朝)に味方してはならないと思っていたからこそ、三浦の人々と一戦交えたというのに。こちらの事情は三浦の人々にも伝えてあることであるが・・・。それにしても兵衛佐殿(頼朝)の勢いはただ事とは思えない。こうなってはただひたすら(頼朝のもとへ)推参するべきと思うが、お前はどう思う?」
これに成清は、
「そのことにございます。私も(頼朝のもとへ)推参するべきと言うつもりでございました。弓矢を取ることを習いとしている者にとって、父と子が敵味方に分かれることになるのはよくあることでございます。平家は今の主、佐殿(頼朝)は四代相伝の主君でございます。参上するのになんの不都合がございましょう。今は一刻も早く参上するべきでございます。まごまごして遅れれば、きっと追討の軍勢を差し向けられることでしょう」
と申したため、(重忠は)500余騎の軍勢をもって白旗、白い弓袋を指し、(頼朝に)味方することを申し出たといいます。
なお、『吾妻鏡』では畠山重忠は長井の渡し(場所不明)で頼朝勢に合流し、この時河越重頼も頼朝のもとへ参上してきたことを記します。時に治承4年(1180年)10月4日のことであったといいます。
ともあれ、これにより秩父党の主だった江戸・河越・畠山の三氏がこぞって頼朝に味方することになり、さらに頼朝の勢いはさらに増したのです。
頼朝と重忠の対面〔畠山村濃の由来〕
重忠と対面した頼朝は言います。
「なんじが父・重能、叔父・有重は今平家に仕えている。とりわけ小坪にて我らに弓を引いたうえ、この度はこの頼朝と同じような旗を差してきている。なにか企んでのことであるか」
重忠は答えて、
「まず、小坪の戦にやむなく臨んだことは、三浦の方々に再三申し上げてきており、戦に至った次第はきっと三浦の方々からお聞きになっていることと存じますが、あの戦については全くもって私の意志で行われたものではなく、まして君(頼朝)のことを軽んじたわけではございません。
次に旗のことでございますが、御先祖である八幡殿(源義家)が清原武衡・家衡を討伐なされました時、この重忠の四代前の祖父、秩父十郎武綱が初めて源家に参陣し、この旗を差して御供し、先陣を駆けて、やがてはあの武衡を討伐したのでございます。また最近では、御舎兄であらせられる悪源太殿(源義平)が多胡先生殿(源義賢)を大倉館において攻められた時の戦で、わが父(重能)はこの旗を差して即座に(義賢を)討ち落としたのでございます。源氏の御為にあれこれと先祖代々慶事が重なりましたので、その旗を『吉例』と名づけたのでございます」
と弁明したため、頼朝は傍らにいた千葉常胤や土肥実平に、この者をどうするか尋ねました。
すると彼らは、
「畠山を御勘当なさってはいけません!畠山だけでも御勘当なされば、武蔵・相模の者たちは決して味方には参りませんぞ!彼らは畠山をこそ守ろうとするでしょう」
と、一緒になって畠山の処分を思いとどまるよう訴えました。これには頼朝も一理あると思い直し、
「なんじが弁明するところ、確かに由縁がないわけではない。ならば我が日本国を打ち平らげようとするときは、ひたすらその先陣を勤めよ。ただし、なんじの旗には、この革の文様を捺すように」
と、重忠に藍で染めた革を一文授けた。これにより畠山の旗は以後「小文(紋)の旗」と呼ばれるようになります。
そして、このことを聞いた武蔵国や相模国の武士たちは、こぞって頼朝のもとへ馳せ参じてきたということです。
(参考) 松尾葦江編 『校訂 延慶本平家物語(五)』 汲古書院 2004年
ここで言う相模国・武蔵国の武士たちというのは、おそらく畠山氏などの秩父党と関りが深い武蔵七党の中小武士団を指しているものと思われます。この畠山やそれに伴う中小武士団の参入によって、頼朝は武蔵国をほとんど掌握した形になり、これまで平家方優勢だった坂東の情勢は一気に変わることになったことは言うまでもありません。
また、この時定められた畠山氏の新たな旗印がやがて家紋になったと考えられます。畠山氏の家紋は「畠山村濃」といいますが、これはこの時のエピソードが由来となったものなのでしょう。
頼朝の鎌倉入り
武蔵国をも制圧下に置いた頼朝勢はいよいよ鎌倉へ向けて進軍を開始しました。先陣は畠山重忠、後陣は千葉常胤という陣容で、道筋は武蔵国府(東京都府中市)からそのまま南下して多摩丘陵を抜けるルートを取ったと考えられます。
また、これに先立って頼朝は秩父党の江戸重長に武蔵国の取り仕切りを命じました。これは江戸重長のここまでの功績を認めたという頼朝の意思表示であるとともに、いまだ頼朝に同調していない北関東の武士、例えば上野国の新田義重や下野国の足利忠綱(藤姓足利氏)などへの備えもあったと思われます。
治承4年(1180年)10月6日(『吾妻鏡』)。
ついに頼朝は河内源氏ゆかりの地である鎌倉へ入りました。頼朝たちはこの鎌倉を自分たちの拠点とするべく早速動き出し、急ピッチで整備が行われていくことになります(※1)。
『吾妻鏡』によれば、当時の鎌倉は東国の一寒村といった風情で、頼朝が邸宅にできるような建物は何もなかったため(※2)、まずは頼朝の邸宅の建設を急ぐこととなり、大庭景義(大庭景親の兄、景義は当初から頼朝に味方しました)を奉行としてその造営が始められました。しかし、新造では時間がかかるため、その間の仮御所として北鎌倉・山内にあった知家事(※3)兼道という者の住まいを移築することにしたといいます(※4)。この兼道の住まいはかつて安倍晴明によって鎮宅の符が押された家で、正暦年間(990年~995年)に作られて以来、この時まで火災に遭ったことがなかったそうです。
また、頼朝の邸宅(御所)の建設地として当初、父・源義朝の邸宅があった亀谷(現在の鎌倉市扇ヶ谷・寿福寺付近)にしようとしていましたが、その地は思いのほか狭かった上に、岡崎義実が義朝の菩提を弔うために建てた寺院などもあったために取りやめ(※5)、結局大蔵郷(現在の鎌倉市雪ノ下)に御所を建てることとなったといいます。
治承4年(1180年)10月11日。この日、北条政子が鎌倉へやってきました。
政子は頼朝が石橋山へ出陣して以後、伊豆山権現(走湯山)に保護されるかたちで、権現近くの秋戸郷(阿岐戸郷)に避難していましたが、この度ようやく頼朝と再会を果たしたのです。
余談ですが、鎌倉がまだ何も整備できていない状態の時に政子が来てしまったところを見ると、彼女は早く頼朝に会いたい一心だったことがうかがえます。『吾妻鏡』にも、政子は前日(10日)の夜にはすでに稲瀬川(※6)のほとりに到着していましたが、日が悪いということで頼朝との再会を見合わせ、やむなく近所の民家に一泊したことが記されていて(※7)、そこからも彼女の心情が垣間見えるようです。
また、政子に追随するように、伊豆山権現の僧侶・専光坊良暹という者が頼朝とのかねてよりの約束があってやってきました。良暹は頼朝にとって長年の祈祷の師であり、良暹も頼朝は檀那(布施をしてくれる人)という関係でした。この良暹を呼んだのは、鎌倉にあった鶴岡八幡宮を整備して、そこの別当(その寺社のトップ)を勤めてもらうためでした。
鶴岡八幡宮は頼朝の先祖である源頼義が東北地方の安倍氏を討伐する際(前九年の役)に、戦勝祈願として京都の石清水八幡宮からひそかに勧請して建てた社が始まりで、頼義の子である義家(八幡太郎)も修復するなど河内源氏ゆかりの神社でした。そして、この度頼朝はこの鶴岡八幡宮をこの当時あった由比ガ浜に近い場所(今の鎌倉市材木座)からもう少し山寄りの場所(小林郷北山、現在の場所)に移して改めて整備しようとしました。頼朝はこの鶴岡八幡宮を鎌倉の街の中心に据えようと考えたのです。ただこの時、頼朝は本当に神社を遷座してよいものか迷ったようで、クジをひいて決めたといいます(※8)。
なお、もともと鶴岡八幡宮があった場所は現在「由比若宮」と呼ばれて今でもお社が建っています。
ともあれ、こうして今でも鎌倉の街の中心となっている鶴岡八幡宮の造営も始まりました。造営の奉行は大庭景義。良暹が別当です。しかし、これも急に立派な社を造営することができなかったため、最初は簡素なお社を建てて、そこに簡単なお供え物をしてお祀りしたと『吾妻鏡』は記しています(※9)。
さて、こうしてようやく鎌倉に入った頼朝ですが、そうゆっくりもしていられませんでした。なぜなら京都から東国追討使として平家本軍が迫ってきたためです。
軍勢もほとんど息をつく間もなく迎撃の態勢を調えなければいけない状況だったのです。
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