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【伊豆国・山中城 vol.5】山中城の中枢部

今回は山中城本丸エリアを紹介します(前回〔二の丸〕はこちらから)。
本丸エリアは鳥瞰図でみると、赤丸で囲ったエリアになります。

拡大します。


本丸

本丸上段(画面右奥が二の丸との接続口(虎口)です)
本丸中段
本丸上段と中段の高低差

山中城本丸は特徴的で三段構えとなっていますが、山の傾斜を削平して曲輪としているため各段の面積は狭いです。

本丸上段では西は二の丸、北は北の丸と接続し、北東隅には山中城で標高最高地点(586m)となる天守櫓があって、まさしく山中城の中枢となる曲輪でした。なお、本丸の広間は江戸時代に描かれた絵図によれば、本丸上段の写真中央右寄りにある藤棚のあたりに建てられていたそうです(解説板より)。

一方、本丸下段は兵糧庫・弾薬庫跡と伝承されていたことから、山中城の物資集積場所だったと思われます。城のガイド本や解説本には山中城本丸はこの下段を含まないことが多いですが、ここでは同一の曲輪と見て本丸の一部としました。

本丸下段(兵糧庫・弾薬庫跡)
本丸下段 排水溝西側の区画
一定間隔に並ぶ礎石

兵糧庫・弾薬庫跡と伝承される本丸下段は、現地解説板によれば、幅50㎝、深さ20㎝の溝が通って東西に二分されていました。この溝は排水溝であったと思われます。そして、この溝の西側の区画からは建物の柱穴が検出され、周辺に礎石と思われる平たい石が出土したため、この場所に建物が建っていたことが明らかとなりました。また、溝の東側の区画からも不整形の穴が数穴検出され、穴からはすずりつき、甲冑片や陶器などが出土したそうです。このことを踏まえれば、やはりこの場所は山中城の武器だけでなく、日用品なども保管する建物が建っていたことが想像できます。

なお、排水溝西側の区画の北西隅、土塁のそばに直径1.5m、深さ2.5mの大穴が4つ並列して検出されました。これらの穴は柱穴ではなく用途不明となっていますが、もしかすると、ここはかわや(トイレ)で排泄物を貯める穴だったのかもしれません。

矢立ての杉

矢立ての杉(手前に一本関係ない木が重なってしまってるのが残念な写真)

山中城本丸の東端に「矢立ての杉」と呼ばれる大木があります。
現地の案内板によれば樹高は31.5mあって、樹齢は500年を超える木だそうです。おそらく山中城築城の時からすでに生えていたのだと思います。

この木は三島市指定の天然記念物となっています。
この矢立ての杉という名前の由来については『伊豆志稿』という江戸時代に書かれた書物によると、戦の勝敗をこの杉の木に矢を射立てて占ったためだそうです。

天守櫓

天守櫓跡
天守櫓基壇(少し土が盛り上がってる部分)

天守櫓は山中城本丸の北東隅にあり、50㎝~70㎝の高さに盛土された一辺が7.5mの方形の基壇(天守台)の上に築かれていました。櫓自体は井楼せいろうもしくは高櫓たかやぐらであったと思われますが、発掘調査では木々の根っこなどによって攪乱されてしまったために櫓の柱穴が確認できなかったそうです。

ともあれ、山中城で最高標高地点(586m)に築かれた櫓だけに城内の見晴らしは良かったと思われます。
なお、本丸から天守櫓への昇降路は基壇から南へ延びる土塁上に1m幅で作られていたと推定されています(前掲「矢立ての杉」の写真の画面左に見える階段が天守台への上り口です)。

本丸西堀

本丸西堀(ちょうど整備工事中で往時のような姿になってました^^)

本丸西堀は本丸と二の丸の間を通る畝堀です。
二の丸と本丸の間には接続として土橋と簡易的な架橋がされていましたが、堀はこの土橋と架橋を境として南北に分かれています。

北側は堀止めとなっていて、一部薬研堀やげんぼり(V字型の堀)が見られる箱堀となっています。ちなみに、この箱堀の底からは兜のしころが発見され、ここで確かに戦いがあったことを物語っています。

一方、南側は畝によって8つの区画に分けられていて、上写真のように途中屈曲して箱井戸の方へ続いていました。
なお、畝堀から本丸土塁までは9mあり、やはりここも急峻な角度がついていますが、二の丸曲輪までは途中幅30㎝~60㎝の犬走りが通っており、本丸と二の丸の間に延びる土橋もこの犬走りで分断されていました。そのため土橋と二の丸は簡単な架橋(もしかして板?)で通行していたと考えられていますが、現在は通行の安全上、土橋としっかりとした架橋がなされています。

本丸東堀

本丸東堀1(画面左が本丸、右の通路は北の丸から三の丸方面へ続く帯曲輪)
本丸東堀2
本丸東堀3
天守櫓直下の本丸東堀(東堀は画面右上に続いていき、左下はそのまま本丸堀に続きます)

本丸東堀は本丸堀(本丸・二の丸の北側を通り、溜池方面へと続く堀)と連続して、北の丸から南へ延びる山中城最東端の帯曲輪の間を通る堀です。

いまでも堀であったことをうかがわせる遺構がよく残っていて、天守台直下ではかなりの高低差があります。特に案内板などはなかったため詳しくはわかりませんが、ここもかつては本丸西堀同様に畝堀だったのかもしれません。しかし、現在では畝の痕跡はわかりづらく普通の空堀のようになっています。

諏訪・駒形神社

諏訪・駒形神社(2010.9撮影)
諏訪駒形神社の大カシ(2016.8撮影)

諏訪・駒形神社は建御名方命たけみなかたのみこと日本武尊やまとたけるのみことの二柱をお祀りする神社で、二柱は武勇の神として崇められており、山中城の守護神として祀られたものなのでしょう。

また、社殿横にある大カシの木は、根回り(樹木の株元)は9.6mあり、高さは25m、樹齢が500~600年という静岡県内でも1,2の古い大木であり、静岡県の天然記念物に指定されています。これも矢立ての杉と同様、山中城築城時には生育していた木と思われます。

※大カシは平成30年(2018)9月9日未明に根元付近で幹が真っ二つに折れ、倒壊してしまいました・・・(その年の台風21号の影響とみられます)。他の方からの現地情報によれば、今はもう切株だけになってしまったようです・・・。
また、諏訪・駒形神社の社殿も次の2019年の台風で倒壊してしまいましたが、今は復旧再建されているそうです。

北の丸

北の丸1(西を向いて)
北の丸2(東を向いて)
北の丸3(天守櫓跡方向[南東]を向いて)

北の丸は本丸の北に位置し、標高は583m、面積は1920㎡もある広い曲輪です。一般的に山城の曲輪は天守櫓により近く、より高い位置にある曲輪ほど重要さが増すと現地解説板にあり、この北の丸は天守櫓のすぐ北隣に位置し、標高が3m低いだけであることから重要な曲輪だったということになります。しかし、北の丸に何か建物が建っていたのか定かではなく、具体的にどのような役割を果たす曲輪だったのか不明です。

なお、北の丸は堀を掘った土で尾根を平坦にならして作り、北・東・西の三方を土塁で囲われていましたが、南方の本丸・天守櫓の方には土塁はありませんでした。

本丸と北の丸を繋ぐ橋

北の丸と本丸の間には畝堀(本丸堀)があり、木橋が架かっていたことがわかりました。現在架かる橋は日本大学の故・宮脇泰一教授が復元したものです。山中城には木橋が架かる部分と土橋の部分とがあり、その使い分けの理由は分かりませんが、木橋の方が簡単に壊せて曲輪を分断できる点で防御に向いていると考えられます。

本丸堀(本丸~北の丸に架かる橋の上から東を向いて。左が北の丸、右が本丸)
本丸堀(本丸~北の丸に架かる橋の上から西を向いて。左が本丸、右が北の丸、前方が二の丸)

北の丸堀

北の丸堀1
北の丸堀2
北の丸堀3
北の丸堀4

上の写真をご覧いただければお分かりのように、北の丸の北側は高低差がかなりある、急峻な北の丸堀があります。この堀は西の丸の北方や本丸の東方まで続いて山中城の城域を囲むように廻らされています。

解説板には、400年ほどの歳月によって現在では堀底が2mほど埋められてしまっているとあるため、築城当時はこれよりもさらに高低差がついていたことになります(多分ここが山中城で一番高低差のある場所だったと思います)。


ということで今回はここまでです。
次回はいよいよ山中城レポのラストになります、岱崎出丸だいさきでまるです。
豊臣軍はこの岱崎出丸から攻撃を開始しました。
それでは今回も最後までお読みいただきありがとうございました。

⇒次記事


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