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~史話~ 治承~文治の内乱

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治承~文治の内乱(源平の争乱から奥州合戦)を史料や諸先生の御著書・御高論を参考にお話ししたものです。
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#源頼朝

【治承~文治の内乱 vol.49】源義仲の挙兵

市原(信濃国)の戦い 以仁王の乱以降、地方で挙兵した勢力は頼朝や甲斐源氏だけではありませ…

およまる
1年前
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【治承~文治の内乱 vol.48】頼朝が勢力を急拡大できたのはなぜ?

はじめに 治承4年(1180年)8月に伊豆で挙兵し、わずか4ヶ月足らずで南関東を勢力下に置いて…

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1年前
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【治承~文治の内乱 vol.47】新田義重の参向

新田義重、頼朝のもとへ 治承4年(1180年)12月21日。この日、上野国(今のほぼ群馬県)の新…

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1年前
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【治承~文治の内乱 vol.46】鎌倉へ馳せ参じてきた人たち

鎌倉の頼朝のもとへは坂東だけでなく他の地方の武士も馳せ参じてきましたが、今回はそんな方た…

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1年前
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【治承~文治の内乱 vol.45】推して鎌倉の主となす

和田義盛が侍所の別当に就任 治承4年(1180年)11月17日(以降の日付はすべて『吾妻鏡』に拠…

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1年前
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【治承~文治の内乱 vol.44】武蔵国は鎌倉の生命線?

頼朝、葛西清重の館へ向かう 治承4年(1180年)11月10日(『吾妻鏡』)。 この日、小栗御厨…

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1年前
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【治承~文治の内乱 vol.43】 頼朝、下野国をうかがう

苦言を呈した男 前回お話しした佐竹攻めの論功行賞の一方で、佐竹方の残党10人ほどが頼朝の前に引き据えられました。これは先だって上総広常や和田義盛らによって捕らえられた者たちでした。 すると、その中の一人で紺の直垂を着た者が、顔を俯かせてしきりに泣いています。 頼朝はなぜ泣いているのか尋ねると、その者は答えました。 「亡き佐竹(義政)のことを思い、生き長らえる理由もないゆえ・・・」 頼朝は、ではなぜ義政が大矢橋で誅殺された際に命を捨てなかったのかと尋ねます。男は、 「

【治承~文治の内乱 vol.41】 頼朝勢、常陸国へ出陣する

頼朝、松田御亭にて地固め 治承4年(1180年)10月25日(『吾妻鏡』)。 相模国府を発った頼朝…

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1年前
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【治承~文治の内乱 vol.40】 敗将たちの処罰

論功行賞 治承4年(1180年)10月23日(『吾妻鏡』)、駿河国から引き上げた鎌倉源氏軍(頼朝…

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1年前
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【治承~文治の内乱 vol.39】 富士川の戦いのその後

1つのターニングポイントだった富士川の戦い 富士川の戦いは平家本軍と甲斐源氏との戦いでし…

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1年前
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【治承~文治の内乱 vol.38】 実際の富士川の戦い(後半)

はじめに 前回は実際の富士川の戦いの様子を探るべく京都の公家の日記を参考にお話ししました…

およまる
1年前
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【治承~文治の内乱 vol.37】 実際の富士川の戦い(前半)

はじめに 前回『平家物語』が記すところの富士川の戦いの様子をお話させていただきましたが、…

およまる
1年前
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【治承~文治の内乱 vol.36】 『平家物語』の描く富士川の戦い

今回は日本史上でも有名な戦いである富士川の戦いについてです。まずはよく知られている『平家…

およまる
1年前
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【治承~文治の内乱 vol.35】 甲斐源氏勢と頼朝勢、駿河国へ出陣

今回は富士川の戦いに至るまでの源氏側の動きを『吾妻鏡』に拠ってお話ししたいと思います。 頼朝、地歩を固めながら西進 治承4年(1180年)10月16日(『吾妻鏡』)。 この日、頼朝は東国追討使(平家本軍)を迎撃するために駿河国へと出陣しました。頼朝がやっとのことで鎌倉に入ることができたのが10月6日とされていますので、わずか10日後に出陣したことになります。 頼朝は駿河国に向けて鎌倉を西進するにあたって、何よりもしなければならないのは、伊豆・相模両国の地固めと大庭景親