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私の中の病気の話

自分自身を人に語るのは凄く難しい。
ある程度仲良くなると友達は「深い話をしよう」と言う。
深い話というものは何を指してるんだろう。
みんな何故か失恋の話をする。


恋バナはみんな好きだし、楽しい。


でも、私は深い自分自身を語る材料として恋愛話をするのは得意ではない。
そもそも、人に語って面白い恋愛話はあまり持ってないからなんだろう。


恋愛においても、過去の忘れられない記憶も、将来の夢も、自分に影響を与えた人の話も深く語るには、必ず私特有の暗さが付きまとってしまう。
今抱えている、病気が私の中を少しくすませているのだと思う。
そして、病気も含めて性格なのだから、そんな自分でいいのだ。とも思う。

しかし、そんなことを話すと、それまでのムードが一変して、シラケがちなことも分かるので、私のそんなに面白くもない私の恋愛話をする。


最近気づいたが、きっと私とっては何気ないことが周りにはあまりに生々しすぎるのだ。
普通のことを私が何気なく話した時に結構みんなは引いていることが多い。
だから、私自身の話はあまりしないし、極力暗くならないように心がけている。


私はいつも私の中で病気が溢れださないように気をつけて生きている。自分自身に安心感を与えて病気と上手く付き合う。
それに時間を費やして8年になる。
14歳から22歳までの青春の期間だ。




ただ、人様から見れば、
一日の大半を今までずっとずっと寝て過ごしていた引きこもりのプータローで、病気の生きづらさを口実で逃げてるダメ人間である。
そのうえ空気さえ読めないので人として終わっている。
メンタル疾患はそのくらい理解されないものだ。


それでも、私は今もずっと「ただ普通に生きる」ことを諦められない。
一生親の庇護の下、生きていくことだってできるが、
私は自分の満足するように生きたいといつも思っている。
プータローで人生を終えたくない。
病気と上手く付き合うため、生活習慣を守って散歩をして、メンタルヘルスの本を読んだりなんかして、何とか何とか生きている。

『「普通に生きる」なんて言わないで、「普通」なんてないよ。』
って言うのは綺麗事だ。
生き方には必ずマジョリティが存在する。
みんなが当たり前に行っている生産性のある活動を私も行って、当たり前に学校や仕事やバイトに行ける生活を私は1番に願っている。


8年間の私の努力の変遷は、目に見えない。
目に見えること以外、私のまともな人生の経歴のうちに入らないのだろうか。
やっても実績の出ないことを、いつも考えてきた私は周りから見れば何も頑張れない人なのだろうか。



例えば私が今日、車に轢かれて死んでしまったら、


みんなからしたら
“こいつは8年間引きこもってた挙句、事故死した。”
それ以外に世間的に、私を語る情報がない。
それは寂しい。


もちろん元気のいい日は、人並みの遊びはしてきた。
周りはそれをサボりだとみなすのかもしれない。
人並みに何かに挑戦して、これで少しずつ回復すればいいなと願っていた。
ところが突然来る不調には決して抗えなかった。


だから学校や部活やバイトなど続けて何かを積み上げることはどうしても出来なかった。
毎日何かをするには毎日元気でなくては出来なくて、
毎日元気ではいられなかった。


こんな感じで、少し前まで生活すらままならなかったけれど、最近大学に復学した。

私の人生では周りと積み上げたものが違うけど、きっと何かは必ず私の中に積み上がっていると信じている。信じていたい。

1人の部屋で感じたことが自分の中に少しずつ溜まって私を動かす糧になると願っている。

自尊心と羞恥心を育てるだけの日々を手放して、もっと自由にもっと気軽に生きていけたらいいのにといつも思っている。


でも現実は、甘くなくて、いつもいつもすごく疲れている。ストレスで手を掻いてしまうため、手がいつも血だらけである。
なんだか、すごく恥ずかしいことばかりで怖いことも沢山ある。


それでも周りの子みたいに積み上げたものが目に見える形で使えるものかは分からないけど、いつか自分だけが手にしたものを上手く使って「ただ普通に生きる」が出来ることを願っている。

実際に人より時間はかかってしまったけれど、勉強は楽しい。
けどやっぱりしんどい。

それでも前に進める私でありたい。

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