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何者でもないあなたへ(マジョリティとマイノリティの、名前のつけられないはざまで)


このnoteも随分放置してしまった。
5年間のフィンランド生活を終え、2016年の夏に日本に帰国してきて、体調をひどく崩して動けなかった時期と、事業を軌道に乗せるためにそこそこ頑張っていた時期があって、そして帰国してから驚くほど「あるテーマ」しか自分の頭の中になさすぎて、記事が偏るのも嫌だなあと思い文章から距離を置いていたところだったのだけど、今またやっと少し書ける気がしている。

今日書きたいのは、おそらくたくさんの、「何者でもない人」に、性自認(自分の性別をどうとらえているか)や性的指向(どんな性別の人を好きになるか)やその他のアイデンティティについて、LGBTなどのセクシャルマイノリティにはぴったり当てはまらないけれど、かといってマジョリティという自覚もない、どこにも所属できていない、名前のつけられないスペースにいる人に、ただ大丈夫だよと伝えたいということ。そんな話です。

[この記事を読むのにかかる時間…10分]


日本生きづらい。とくに性別関係

2016年6月にフィンランドの大学を卒業して日本に戻ってきてからずっと自分の頭の中にあった「あるテーマ」。それは、「日本生きづらい」もっと言えば「すべき、ねばならぬ、してはいけない、の抑圧が多すぎる」ということ。物質的に豊かで、人口の多さにしては治安が良くて、自然も多い、食べ物もとても美味しい、文化芸術もとても素晴らしいものを持っている、環境的にこの国はとてもとても過ごしやすい。でも、人々がそんなに幸せそうじゃない。

すべき、ねばならぬは例えば…

女性はいつも美しく、控えめで思いやりがなければいけない。
男性は強く、リーダーシップを持っていて、頼りがいがあるべき。
男の子は外でスポーツをして活発に遊び、女の子はおとなしくお絵描きやおままごと。
彼氏、彼女がいるのが普通、〇才頃までに結婚するのが普通。
30才を過ぎたら女性としての価値は下がる。
女性とセックスをしたことのない男性は「いじられ」てもしょうがない。
子どもをつくってこそ一人前。

↓政治家の失言ににじみ出ている残念なものがとてもわかりやすい
「政治家 うっかり失言 TIMELINE 〜ジェンダー編〜」byチャリツモ
https://charitsumo.com/ukkari/13967

もちろん、いろんな局面で、すべき、ねばならぬのシャワーが社会にはある。ジェンダー、セクシュアリティのことが大きく見えるのは、性別に関わる自意識というのは人間の発達上アイデンティティ(自分は何者か)の核にとても近いところにあるので、人間のbeingについて語られるときは性別的要素がからみがちだし、ゆえにそこで否定されたりジャッジされたりするのはとてもとてもショックが大きいからだ。

男性が男性らしく、女性が女性らしくあることを、美しいという人はいるだろう。それが本来の姿だという人も。私も、それぞれ「らしさ」を自分のものにした素敵な人を何人も知っている。ただ、すべての人の本来の姿だとは思わないけれど。

問題は、この空気が「選べない」抑圧であるということだ。ある男の人が、いわゆる男らしくても、らしくなくてもどちらでもいい。ある女の人が、いわゆる女らしくても、らしくなくてもどちらでもいい。体や心が男女どちらに当てはまらない人も、当然どちらか一方を選ぶ必要はない。つまり、だれもがその選択を内包して、ただその人らしく、自分のあり方を自ら選んで表現できれば、問題はないのに。

男らしくしなさい、女らしくしなさい、〇〇らしくありなさい、という言葉そのものに、「その人の自然体がそうではない」と認めていることがすでに隠れていて、その不自然を人や社会から常に求められていることが、しんどいのだ。なぜ人から、社会から、あるいは自分から、縄をかけられ縛られなければならないのだろう。

みんな我慢しているから、すべきなのだろうか?人と同じ型であることに、本当に価値はあるんだろうか。大量生産の時代には、もしかして効いていたことは一部あるのかもしれない。(それでも苦しんでいた人はいるはずだ)けれど人手不足になってきたこの社会で、不自然なままで生きて、どれだけの力を発揮できるだろう?自分が着たくない、望まない服を役として人から着させられて、一日中ハッピーではりきって働ける人は、一体どれくらいいるだろう?社会の存続のために、繁栄のために、多くの人が不幸せでいるならば、その社会はもうすでに終わっていないだろうか。


誰が困難を感じているか

自分のジェンダーアイデンティティのことで特に困難を感じやすいのはセクシャルマイノリティの人々で、ゲイ・バイセクシャル男性の自殺率は、異性愛のストレート男性の6倍にもなるとも言われている。セクシャルマイノリティの高校生の6割がいじめを経験し、1/3が自傷を経験したことがあるとも。(参考


ほぼ毎日、世界のニュースから、いじめや、自殺や、不平等に関するものが流れてきて、その偏見の多くが、そういうものだから、というただの思考停止から来ていること、世の中が変わっていく中で、手放してもいい価値観も絶対にたくさんあるはずなのに、強固にそれを振りかざされ、まだまだ苦しまなければならない人々がたくさんいることが、本当に胸が痛い。


企業で働いている人ならば、LGBTについての研修を受けたことのある人もいるだろう。電通の調査によると日本でLGBTに該当する人は8.9%(11人に1人)いるとされるが、男らしさ女らしさの性別規範があるがゆえに、いじめや不平等を恐れ、安心して暮らしたり働いたりすることに、心理的にも制度的にも多くの困難がある。

そして、LGBTにあてはまらない人にも、前述したように当然ジェンダー、セクシュアリティにまつわるたくさんの難しさ、生きづらさがある。近年は自分のアイデンティティがまだ不明な人や決めたくない人、人に対し恋愛感情や性的欲求を持たない人など多数あるその他のセクシャルマイノリティを含めLGBTQ+と総称することがあり、LGBT(レズビアン、ゲイ、バイセクシャル、トランスジェンダー)に加え性の多様性を広く含む部分がQ+だ。(参考


誰の中にもあるゆたかな多様性

わたし自身、LGBTではないけれど、LGBTQ+の中には、現在自覚するセクシュアリティが入っている。

このあいだ40才を迎えたのだけど、ほんとうに去年、「ああ、私はこの人のことが好きだ」と心から思ったとき、不思議なことに、自分の人生をはじめて見つめられた気がした。まるで今生まれたかのような感覚だった。ほんとうに自然に、ある人を好きになって、あるいは誰も好きにならなくて(それも自然体のひとつ)、それにもさまざまな形があって、それが自分自身であると肯定できることは、とても幸せなことだと知った。


同じように、自分の性自認(自分の性別をどうとらえるか)を自覚して、幅のあるグラデーションの色の中のひとつであっても、これが自分だと肯定できるのもうれしい。

わたしは自分の自覚的な性別を100%女性ではなく、いくらか男性っぽいときもある、中性のときも、無性のときもあると感じていて、強く自覚するときもそうでないときもあって、それは日々ゆれ動いている気がする。性表現は、人には女性扱いをされるより、私という生き物として(できれば楽してエレガントに)見られたい。だから、スカートは履かないけれど、ワンピースは便利で着やすいのでたまに着る。男性・女性が好きか嫌いというより、外側の性別よりも、その人の中身、個性を見て、好ましく思う。


最近では知っている人も多いと思うけれど、これらの考え方をSOGI(ソジ/ソギ)という。Sexual Orientation and Gender Identity…性的指向と性自認=どんな性別の人を好きになるか(ならないことも含め)、自分の性別をどうとらえるかという見方の略称だ。これは、LGBTに該当する人々だけでなく、すべての人が自分のあり方を問えるものだ。


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(出典) www.itspronouncedmetrosexual.com


呪いから解き放たれた人は輝く

実はわたしは今現在、日本の生きづらさ、ジェンダー規範のきつさや、セクシャルマイノリティへの差別をなんとかするために、あらゆる人の自然体をエンパワーするために、性の多様性を哲学対話するプロジェクトを始めている。

世の中には、いろんな、「すべき」「ねばならぬ」がある。特に、ジェンダーについて。男はこうあるべき、女ならこうあるべき。その当たり前は、化石化しているものも少なくない。「ふつうは何のためにある?」を疑いながら、ジェンダーや性、人生についての「当たり前と言われているもの」をテーブルに上げ、この考えをどう思うか問い、そしてその考え…価値観を手放すか、持ち続けるか、変化させるかは自分次第という、対話を通して自らの思考の棚卸しをしていくものだ。


SOGIをカジュアルに哲学するので、ソジテツというプロダクト名なのだけれど、このソジテツの体験会に参加してくれたある社会人男性が、対話のあとに泣き出してしまったことが、1年以上経った今でも記憶に鮮明に残っている。

聞けば、「自分はすごく我慢していたと気づいたんだ」、と。自分は同性愛者ではないけれど、友情なのか何かわからないレベルで男性を好ましく思うことが何度もあって、それが自分にとって自然で、でもそれを言えば絶対におかしく思われるから、それを思わないように、言わないようにしていた、それがきっと心の奥でずっとつらかったんだと。

またある男性は、「好きになるのは女性だけれど、性的欲求は持てない自分を、これでいいんだと思えるようになった」とほっとしていた。彼らはいま、ものすごく活き活きして、より精度高く明るく自分の人生を歩んでいるように思える。よく言われている言葉だが、人の個性は本当に豊かなグラデーションで、性別の中に個性があるのではなく、その人の豊かな個性の中に性別のアイデンティティがあるのだ。同じ型にはめられるものでもない。


身近で、肩の荷をおろしてくれた男性たち。それくらいの呪いが、かけられていたということなのだろう。わたしは女性として育てられたから、女の呪いは知っていても、男性として生まれた人がどれだけの「すべき、ねばならぬ」を受けてどれだけのプレッシャーを感じているか、想像することしかできない。けれど、自ら呪縛を外した人たちがどれだけ素敵になるかを見せてもらい、きっとひとりひとりの“人間”同士として、多くの人とより幸せな未来を見ていけるだろうということに、疑いはない。


大人になってから、性別を超えて、大切な友人といえる人がたくさんできた。このnoteの昔の記事に共感してくれた男性のひとりは、今一緒にプロジェクトに参加してくれている、大事な仲間となった。生涯でかけがえのない女性のパートナー(こう言っているけれど未だ名前のつけられない、とてもとても大切な関係の人)もできた。


はざまにいるあなたにも、みんなにも、たくさんの色がある

わたしがそうであったように、マジョリティとマイノリティのはざまにいる(と思っている)人々に伝えたいのは、大人になっても、今からでも、視界がぱあっと開けるような体験をできる可能性があるということだ。


もし何か、生きづらさ、いづらさを感じているのなら、それはどんな「当たり前」「ふつう」…すべき、ねばならぬ…によってもたらされているのだろうか。価値観といってもいい。それは人からかけられている呪いなのか、社会の空気なのか、自分でかけている呪縛なのか。

そしてその考えは、手放したい偏見なのか、持ち続けたい価値観なのか、変化させたいものなのか。自分で決めることができる。手放すと決めたら、周りがどう思おうと、手放してみればいい。


わたしが捨てた考えは例えば、「ある程度の無知さを演じる(女性は賢くないほうがいいらしいから)」「お酒をついで回るのが正しい(女性の仕事らしいから)」「自分を大きく見せたり小さくみせたりする(仕事ってそういうものらしいから)」「モテたーいって言う(とりあえず恋愛市場に乗っている空気?)」 どれも小さいことだけれど、すててみたら、とても楽にさせてくれた。

でも、まだ捨てられていない偏見もたくさんある。書くのも恥ずかしいけれど、女性はかわいくあるべき、という思い込みがまだある。捨てたいが、なかなかしみついて振っても手から離れない。(持ちたくて持つ人はそれでいいと思うので、自分の考えの話。)たぶん、小さいころからの漫画や小説の読みすぎからきている頑固なものだが、手放したいなあと思う。より、自分らしくあるために。

ジェンダーや性のことは、わたしもまだ向き合い始めたばかりで、これを読んでいる人には、上に書いたような思考の棚卸しを提案することしかできないのだけれど、きっと、役に立つと思う。そして、自分が感じる自分のままでいようとすることは、正しい。人間として、正しい。それは、自分勝手というよりも、自分らしくあるほうが、自然で、素直になれ、喜びを感じ、幸せを感じ、悲しみも感じ、怒りも感じ、本当に自分のためになることをでき、誰かのためにもがんばれるから。かけがえのない友人も、いつのまにかできるから。


どうか自分だけの色に気づいて、肯定して、手放したい考えを、手放してみてください。できる範囲で、自分を表現してあげてください。そしてそれがきっと他のだれかの勇気になる。



追記:
文中にあるわたしたちのソジテツプロジェクトは現在進行中です。2/28までクラウドファンディングもしていますので、もしご興味があればご一読ください。
「性に関するモヤモヤをカジュアルに語れる「ソジテツ」カードセットを全国へ届けたい!」
https://camp-fire.jp/projects/view/226260

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