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言語&法&貨幣

言語・法・貨幣と人文科学

4 自己循環論法(2008・6・4)

 なぜ私はたんなる空気の振動でしかない「ドロボー」というが泥棒という意味であると思い、低い柵でしか囲われていない庭の使用は所有者だけの権利だと思い、1枚の紙切れにすぎない1万円札に1万円の価値があると思っているのだろう?
 それは、他のすべての人間が、その声が泥棒を意味すると思っており、その紙に1万円の価値があると思っているからである。
それだけではない。
他のすべての人間もそう思っているのも、それぞれ他のすべての人間が、その声が泥棒を意味すると思っており、その庭の使用は所有者だけの権利だと思っており、その紙に1万円の価値があると思っているからである。
 これは「自己循環論法」である。
言語とはすべての人間が言語として使うから言語なのである。
法とはすべての人間が法として従うから法なのである。
貨幣とはすべての人間が貨幣として受け取れるから貨幣なのである。
 言語も法も貨幣も、まさにこのような自己循環論法の産物であるからこそ、物理的性質にも遺伝子情報にも還元しえない意味や権利や価値を持ちうるのである。
もちろん、多くの言葉の音の響きや文字の形と結びついた意味を持ち、多くの法律は人間が当然従うべき道徳義務に基づき、多くの貨幣は商品としても価値がある。
だが、これらの要因だけでは、言語と法と貨幣とが歴史的に多様な発達をとげ、社会ごとに大きくことなっていることを説明できない。
 私は言語や法や貨幣のことを「社会的実体」と呼んだ。
それは人間から大きな反応を引き出すという意味で「実体的」である。
 だが、それはどういう意味で「社会的」なのだろう?
第1に、言語も法も貨幣も、それを言語や法や貨幣を用いている社会から切り離してしまえば、言語でも法でも貨幣でもなくなってしまうからである。
日本語と異なった言語を話す集団ではドロボーと叫んでも誰も振り向いてくれない。
日本の法律が及ばない領域では高い柵を巡らせても誰もかまわず庭を行き来するだろう。
日本経済と取引関係のない人には1万円札は単なる紙切れにすぎない。
言語も法も貨幣も、それぞれ特定の社会の中でのみ意味をもち権利を与え価値となるという意味で、社会的なのである。
 そして、社会的であるということには更に深い第2の意味がある。

やさいい経済学 21世紀と文明 岩井克人 より引用

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