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「佐賀の大砲」の真実――幕末維新と佐賀藩

江戸湾を封鎖すれば、江戸は10日で干上がる――それが当時からの見立てであった。

ペリー提督が1853年、軍艦4隻を引き連れて浦賀水道に現れた時、江戸幕府は冷静に対応したとか、すでに情報を十二分に持っていたとか、国際法で論破したとかいった新説が次々に出ている。事実なのだろう。
しかし、外国の艦隊が江戸湾を封鎖すれば、人口100万の一大消費都市・江戸は、大坂からの海運が閉ざされ、1週間から10日間で飢餓に苦しむとは、シーボルトや佐藤信淵のぶひろ(江戸後期の経済学者)がすでに指摘していたところであり、幕府もペリー提督もよく知るところだった。そもそも海岸から約3キロの江戸城は、小型の砲艦2,3隻で海上から砲撃すればたちまち陥落すると見込まれていたのである。
幕府が慌てないはずはない。そこで取った策はなんと、西国の外様大名である佐賀藩に鉄製大砲100門を大至急製造してほしいと依頼することであった。6月3日にペリーが現れてから22日に問い合わせていることからも、幕府の慌てぶりは明らかである。しかも天下の江戸幕府が、外様大名に軍事援助を求めるとは前代未聞のことであり、幕府の武威に関わることであった。背に腹は代えられなかったのである。

しかしなぜ、佐賀藩?
端的に言うと、佐賀藩が日本で最先端の軍事技術を持っていたからである。
それは佐賀藩が200年にわたって、海外との窓口である長崎を防衛する役目である「長崎御番ごばん」に任ぜられていたことと関係がある。1年交代で国防を担っていた佐賀藩(と福岡藩)は、財政的には困窮したが、参勤交代を特別に100日に短縮されるなどの待遇を受け、「百日大名」と自慢するほど誇りとしていた。
ところが1808年、フェートン号事件が起こる。イギリスの軍艦フェートン号がオランダ商船に偽装して長崎に来航、検使を追い返しオランダ人を人質にとり物資を要求するという傍若無人なふるまいを起こしたのである。とうぜん長崎御番の佐賀藩の出番であったが、なんと200年の泰平にうつつを抜かしていたのか、藩兵のほとんどが帰藩していた。フェートン号は物資を受け取ったあと退去したが、佐賀藩に非難が集中し、藩主が100日間の謹慎を命じられ、佐賀藩はこれを屈辱とし、藩政の立て直しを誓った。


鍋島直正

1830年に鍋島直正が藩主になると、佐賀藩は医学から軍事にわたる西洋化を図った。天然痘の種痘を日本で初めて藩主の子息に打ったのは有名な話だが、とりわけ際立ったのは鉄製大砲の製造であった。オランダの解説書をもとに鋳造に着手、足掛け2年14回目の挑戦でようやく成功した。長崎の国防体制は一変した。1854年に行った演習では、沖合1500メートル先の標的に向けて発射された12発のうち10発が命中し、幕府の役人ら参観者の度肝を抜いた。

佐賀市築地の反射炉とカノン砲

幕府にまず50門を納品した佐賀藩の鉄製大砲は、たちまち全国諸藩に知れ渡り、津軽藩から対馬藩まで300門をはるかに超える注文があった。佐賀藩の武威は高まった。驕った鍋島直正が薩・長・土の装備は大したことはないと失言し、薩摩藩とともに京都守護職に落選して、薩摩藩の恨みを買うというエピソードもあるくらいである。
尊皇攘夷から倒幕へと激しく時代は動き、新政府軍は鳥羽・伏見の戦いで幕府軍を破った。この戦いには間に合わなかった佐賀藩であるが、上野彰義隊との戦いや会津鶴ヶ城攻防戦など戊辰戦争の主要な戦いで活躍したのは、やはり佐賀藩の砲兵集団あり、最新鋭のアームストロング砲は「佐賀の大砲」として恐れられたのは有名な話である。
佐賀藩の鍋島直正や江藤新平は明治政府首脳陣として活躍する。佐賀勢の影響力は鍋島直正が1870年に死去、江藤新平が1874年の「佐賀戦争」(佐賀の乱)で敗れ刑死するまで続いたが、佐賀勢の武威・武功を背景としているのは言うまでもない。
ついでと言っては何だが、一言。江戸・長崎の台場に設置された佐賀藩製の鉄製大砲は実戦では使われることはなかったし、戊辰戦争で大活躍した「佐賀の大砲」アームストロング砲は、実はオランダ製のようである。これが「佐賀の大砲」の真実である。

参考文献
毛利敏彦『幕末維新と佐賀藩』
井上勝生『幕末・維新』

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