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ドストエフスキー『罪と罰』とビートルズ

ドストエフスキーでもスタインベックでもいいのだけれど、100年を超える評価を受けてきた古典小説を批判するのは、なかなか難しい。権威への冒涜に思われがちだからです。

しかし「揺るがない権威」というのは、実はあやふやなものです。例えばヘミングウェイはアメリカ文学のチャンピオンとなりましたが、最近ではやわな流行作家と思われていたフィッツジェラルドの方が分がいいように思えます。サルトルとカミュの論争ではサルトルが優勢に思われましたが、今はカミュの『異邦人』は不滅の名作の位置にいます(それだって未来は分からないのですが)。最近は夏目漱石の作品を批判することも結構許されるようになってきています。一つの価値観にとらわれない奥行きこそが文学批評の愉しみであり、いい傾向だと思います。

ところで、私が古典小説で(現在のところ)最高峰に挙げたいのが、冒頭のドストエフスキーです。「『カラマゾフ兄弟』にはすべての解答が詰まっている」と宣う人もいますが、そこまで世界は単純じゃないよと思うけれども、まあカラマゾフ兄弟の「救いがたい人間への救い」を問うたスケールの大きさには心打たれます。推理小説として読んでも素晴らしい展開力を感じます。

彼の作品の中では、個人的には、『罪と罰』が一番好きです。一番好きな理由は、純真な娼婦ソーニャというヒロインがいるかいないかの違いであります(笑)。人間不信に苦しむ主人公に最後に待っていたのがソーニャという人間の存在というのが、ヒューマニズム小説にふさわしい。

ここまで書いてきて、私、不満があるのですよ。『罪と罰』に。

理由の一つは、殺人を犯した主人公が、精神錯乱状態として罪が大幅に軽減されたこと。えっ、じゃあ主人公は精神錯乱のために殺人を起こしたのであって、「微細な罪は大義のためには許される」というインテリゲンチャの論理のためではなかったのか、と思うわけです。そうするとこの新潮文庫の裏表紙にあるような「ロシヤ思想史にインテリゲンチャの出現が特筆された1960年代、急激な価値転換が行われる中でも青年層の思想の混迷を予言」したものではなくなってしまう。

もう一つはですね。『罪と罰』の罰の部分ですよ。すなわち良心の呵責。新潮文庫の裏表紙には「予期しなかった第二の殺人が、ラスコーリニコフ(主人公)の心に重くのしかかり、彼は罪の意識におびえるみじめな自分を発見しなければならなかった」とありますが、主人公が苦しんでいるのは精神錯乱と、予審判事ポルフィーリィによる追及になってしまって、老婆の妹を殺した罪悪感というのは、言われているほど主人公に重くのしかかってないように思えるのです。

エピローグはハッピーエンドで終わっています。

彼らにはまだ七年の歳月がのこされていた。それまでにはどれほどの堪えがたい苦しみと、どれほどの限りない幸福があることだろう!だが、彼はよみがえった。そして彼はそれを、新たに生まれ変わった彼の全存在で感じていた。

そして彼はこんなことまで感じています。

このすべての、過去のすべての苦しみがなんであろう!

おいおい、被害者のリザヴェータの魂はどこに行ってしまうの?

私は、ヒューマニズムの立場からすれば、主人公は一生罪を背負っていきべきだと思います。罪を背負いながら、必死に前を向き、人生を生きていく。

全然関係ないですが、ビートルズの「CARRY THAT WEIGHT」という歌の歌詞を思い出しますね。

Boy,you’re gonna carry that weigt,carry that weight ,a long time
(きみはその重荷を背負っていくんだ/背負っていくんだよ、これからもずっと)

ポール・マッカートニーのビートルズという重荷と、ラフコーリニコフの殺人の罪の重荷は全然違うと思うんですけれども、過去を背負いながら必死に生きていく「次の物語」が知りたかったですね。僕は。

というわけで、古典小説でもっとも好きな『罪の罰』でも、議論すべき余白が残されている気がします。繰り返しますが、それが文学批評の愉しみなんですけれどもね。

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