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本能寺の変を許した織田信長の3つの「隙」

明智光秀に関する本は数多く出ているが、福島克彦『明智光秀 織田政権の司令塔』は、光秀謀反の理由という核心部分にほとんど触れていない珍しい本である。あえて言うと、従来の怨恨説や黒幕説(朝廷/足利義昭/イエズス会/本願寺教如の関与)を退けたうえで、定説となりつつある武将間の派閥抗争説、具体的には四国政策の担い手が明智光秀から羽柴秀吉に変わったことによる派閥抗争の先鋭化を短く紹介するのみである。テレビドラマなどの影響で「本能寺の変」ばかりがクローズアップされ、武将としての評価が十分に検討されていないという嘆き節も吐露しており、福島氏はあえて光秀謀反の理由について深堀していない。

というわけで福島氏の『明智光秀』は武将としての光秀を検証した。そして、織田信長ではなく豊臣秀吉にこそ革新性(石高に基づく軍役、都市の自立、寺社勢力の排除、朝廷権力の掌握など)が認められるとしたうえで、そのルーツの一つに明智光秀の領国支配があるという魅力的な説を打ち出している。

しかし、逆説的にも福島氏の研究で、織田信長の弱点、信長が「本能寺の変」を引き起こした「隙」が見えてくるのである。今回は信長の隙を3点紹介したいと思う。

1、家臣への過度な権限移譲と個人的紐帯の依存
信長は家臣団との関係も法支配というよりは個人的紐帯(=信頼関係)に頼っていた。足利義昭や四国の長曾我部元親らとの外交・折衝すら光秀ら配下に任せていたし、戦線すら、中国地方の羽柴秀吉、北陸地方の柴田勝家に軍の指揮を任せていた。「彼らはさながら独立した戦国武将だった」と福島氏は分析する。

2、明智光秀への油断
信長は機内・近国の戦線と領国支配を明智光秀に任せていた。彼への信頼が結果的には仇になった。明智光秀の城である丹波・亀山城と近江・坂本城は、天皇の御座所であり信長も拠点としていた京都を挟むように位置している。実際、遠方の羽柴・柴田軍に比べ、明智軍は信長が宿泊する本能寺から1日の距離にある亀山城にいた。

3、京都に城を築かなかった
これが信長最大の失態だろう。京都にいた足利義輝が三好勢に襲撃された過去から信長は学ばず、京都に城を築かず、本能寺を定宿としていた。多勢に無勢となった本能寺の変はこのために起こった。ちなみに豊臣秀吉は京都自体を城塞都市にしたし、徳川家康は京都に二条城を築いた。本能寺の変の反省を生かしたのだろう。

本能寺の変(Wikipediaより)

――明智光秀は織田信長に以前、京都に居城を造るべきだと進言しているが、信長は受け入れなかった。その光秀に京都・本能寺で襲撃されるとは、まさに歴史の皮肉と言える。

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