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佐賀市歴史探訪(2023.2.26)

今日、ふと思い立って、佐賀に行くことにした(司馬遼太郎風)

というわけで、福岡市・天神から高速バスで1時間半、佐賀県佐賀市にやってきたよ。

佐賀駅から佐賀城公園まで徒歩20分くらい、のんびりと歩く。昔、佐賀県印刷工業組合の理事長に、うっかり「やはり(地方の)佐賀は元気ないですねえ」なんて話したら、「いや、そう見えてみんな、田畑でんぱたや海苔の養殖場なんかを昔から持っていて、のんびりとしたもんですよ」なんて返されてしまって、すっかり恐縮してしまった。失言から得られる言説というものもあるが、地方=過疎化なんて偏見で、少なくとも佐賀駅から佐賀公園までの通りはなかなか楽しい。
こじゃれたハイブランドのショップがあったり、公園で武士たちがベンチで腰かけていたり。写真は枝吉神陽、島義勇、佐野常民。いずれも藩校・弘道館の出身だが、とにかく幕末・明治の偉人が多い。

公園で議論する武士たち

私も知らなかったが、グリコと森永というお菓子メーカーの双璧も、共に創業者が佐賀県出身(右が江崎利一、左が森永太一郎)。江崎さんは道頓堀の看板で有名な「ゴールインマーク」のキャラメルを持っていてなんだか可愛い。佐賀市の八坂神社でかけっこしている子供たちから意匠を思いついたんだってさ。

グリコと森永の創業者も佐賀県出身

さて、見えてきました佐賀城址。城好きにはたまりませんな。

佐賀城址

佐賀城公園の入り口にでんと構えるのは、幕末の佐賀藩の名君・鍋島直正公。いかに佐賀市民から畏敬されているかがわかる。なんでも「佐賀の妖怪」と呼ばれたなんてWikipediaにあり、「日和見主義者」「大の陰謀家」と噂されたりもした(アーネスト・サトウによる)。確かに痔を理由に江戸への参勤を拒否したり、鳥羽・伏見には遅参したりしたが、日本初の反射炉を開発して鉄製鉄砲を製造させたり、理化学研究所を作ったりと名君であることは論を待たない。新政府では議定に選出され、その死までは岩倉具視とともに政権のツートップを組んだ。大納言というのは当時は名ばかりの肩書では決してなかったし、開拓長官というのもなんだただの北海道開拓長官かよと思われるかもしれないが、当時の蝦夷地はロシアとの係争地でもあったわけで、重要な官職だったことがわかる。明治4年に惜しくも亡くなるが、遺言は明治天皇に天然痘の種痘を打ってほしいとのことだったという。

そびえたつ鍋島直正公の銅像

しゃちほこの門」にはばっちり鯱が飾られているが、佐賀の乱での弾痕も残っている(今回は見つけられなかった)。

シャチホコを頂く「鯱の門」

佐賀の乱を起こした江藤新平は、この本丸御殿で行われる寸劇では「KYキャラ」(空気読めないキャラ)を演じている。

KYキャラ?の江藤新平

なんて無礼で、自虐的なんだろう、佐賀市民。江藤新平は「司法の父」として有名だが、多くの人々が大学教育に目を向けるなか、初等教育や女性への教育を大事にした教育の父でもあるんだぜ。例によって歴史小説家(例えば松本清張)などは、見苦しくも逃走し、死刑にあらがった愚者に仕立て上げているが、「司法の父」としてちゃんと東京で裁かれようと上京しようとしたわけで、むしろ佐賀裁判所に死刑の判決権はないは、大久保利通の陰謀もあるはで、そちらの方が納得いかない。

さて、城内に入ると立派で新しい本丸御殿が。カノン砲やらアームストロング砲やらが飾っており、まさに「佐賀の大砲」を誇りとしているのがわかる。レプリカだけどね。

佐賀城本丸歴史館


カノン砲の模型

歴史館に入ると、島原の乱の甲冑とか、スナイドル銃とかがまず目に映る。島原の乱で佐賀藩は諸藩で最大の兵力を動員し、死傷者3600人強を数えた。長崎御番を仰せつかまれ、国防の最前線にいたことが、結果的に強大な軍事力につながった。

佐賀藩の甲冑。島原の乱では最大の犠牲者を出す

320畳の外御所院ではひなまつりのイベントが行われていた。

上野彰義隊を蹴散らす佐賀のアームストロング砲。

上野彰義隊との戦い

有明海の神ノ島・四郎ケ島に砲台を設け、陸続きに埋め立て、臨海を要塞化したんだね。

有明海臨海の砲台

三重津海軍所絵図。蒸気船も造船したんだね。すごいね。

三重津海軍所。蒸気船「凌風丸」もここで造った。

天然痘の牛からとった種痘を、息子や娘に打たせる直正公。

息子に天然痘の種痘を打たせる直正公

出ました日本初の反射炉(製鉄炉)と鉄製大砲の製造絵図。世界遺産である幕府の韮山反射炉(伊豆)よりも、薩摩よりも長州よりも早く、反射炉を完成させた。

佐賀の築地反射炉

あっ、特別展では「御家交代の実像―竜造寺から鍋島へ」をやっていた。撮影不可だったからあえて省略するけれど、江戸時代に藩主の御家が変わるなんて不思議な話。そりゃ化け猫にも出るわな(鍋島化け猫騒動)。史実はえらい違うそうだが。

竜造寺氏から鍋島氏へ御家交代

あー楽しかった。勉強になった。ついでにと言っては失礼だが、歩いて20分ほど東に行って、大隈重信の生家と記念館に行ってきた。

大隈重信

大隈重信は早稲田大学を作った、内閣総理大臣まで上り詰めた以外、あまり知らなくて、本当にすまない。でも教育ママが家を二階建てに改造して勉強部屋を作り、眠気覚ましに梁の出っ張りを作って徹夜で勉強させたというから、まあ偉人にはなるし、教育者にもなるわな。

母親が二階に勉強部屋を作った。

大隈重信公に爆弾を投げつけたのは福岡・玄洋社の来島恒喜だが、自害した来島の家族を支援するなど大隈の妻も人徳者だったのかな。記念館の2階では津田梅子(津田塾大学創設者)との関係も展示されており、女性がキーワードになっている気もした。大隈重信公。

生々しい大隈重信の義足

――というわけで、滞在時間わずか2時間、高速バスで夕方には福岡に帰ってきました。でも何度でも行きたい、佐賀。

おしまい。

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