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光格天皇と民衆

『幕末の天皇』を著した藤田覚は、王政復古(1868)は3人の天皇により成しえたのではないかという趣旨で「光格(天皇)がこね、孝明(天皇)がつきし王政復古餅、食らうは明治(天皇)」と表現している。では光格天皇はどんな人物だったのだろうか。

光格天皇(1771―1840)は9歳で即位し、院政を敷いた後、70歳で亡くなったというから、62年間朝廷に君臨したことになる。男子がいなかった後桃園天皇の急逝を受け、閑院宮家という新しい宮家から急遽養子となり即位した。現在でこそ今上天皇まで連なる家系であるが、天皇家との血筋から遠いため、公家や幕府からも軽んじられたという。しかし学問に励み、やがて近臣1,2人の助けを借りるだけで政務をこなせるようになったという。

天明の大飢饉(1782―1788)により幕府お膝元の江戸まで打ちこわしが起きるなど、徳川幕府の権威に陰りが見えはじめた1787年、無名の老人が御所の周りを廻る「御所千度参り」を始めたのをきっかけに、ピーク時には一日に7万人もの民衆が千度参りに熱狂した。京都だけでなく大坂などからも組織的に御所を訪れたという。人々は京都の市政を預かる幕府所役所の無為無策に見切りをつけ、天皇を神仏に対するように祈願したのだろう。光格天皇は窮民救済を指示し、朝廷は幕府に文書で申し入れた。朝幕間では前例のないことだったが、結果的に幕府から1500石の救い米を放出させた。これが幕末では大きな前例となる。

1791年には天皇になったことのない実父の閑院宮典仁親王に対し太上天皇という尊号を与える尊号宣下を強行する(尊号事件)。これは幕府に阻まれ、関係した公家が処罰される。

1807年、蝦夷地でのロシアとの係争について、幕府が朝廷に対外情勢を報告するという「異例の大事件」(藤田)が起こる。ここに朝廷が幕府に「大政委任」する原則が崩れ、幕末の王政復古へと接続されることになる。

天皇の権威の復古にも尽くした。約380年ぶりに岩清水臨時祭が挙行されるなど祭事の復活に努め、そして何より、1840年に亡くなった際には、874年ぶりに「天皇」という称号が復活し、光格天皇と諡号されたのである。

光格天皇の御代を通じて驚かされるのは、民衆の「情報感度」と「朝廷びいき」である。天明の大飢饉においては、光格天皇が万民を憂慮し対策を幕府に命じた勅書を出したという「偽文書」が流布しているし、大嘗祭で光格天皇が詠んだとされる和歌が、万民の安穏を願うありがたい作として流布され、世上の評判になった。尊号事件においては、朝廷の丸負けであったのにもかかわらず、当時の実録物では正反対の朝廷丸勝ちのように描かれ、貸本屋を通じて民衆に流布した。
そして1841年には次のような落書が出ている。

天皇の号が此度世に出て
はっと驚く江戸も京都も
稜はいかがいかがと有識者
泉はちいと不気受なもの

p138

天皇号が出されて朝幕一様にびっくりし、制度に詳しい有職家たちは、天皇陵を造ってはどうですかと進め、歴代天皇を祀る泉涌寺せんにゅうじはちょっと面白くない――という意味の落書である。

天皇と民衆には、大きな隔たりがあると私は思っていた。しかし京都御所を千度参りしたり、和歌や偽文書、貸本や落書を流布したりして、朝廷の情報は民衆に伝播され、畏敬の念が発露されているのである。
幕末の主役は雄藩であり、幕府であり、朝廷であると思っていた。しかし影の主役に、草莽の志士を含む多くの人々がいたことは明らかなのではないだろうか。

参考文献 
藤田覚『幕末の天皇』

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