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中国・浙江省のおもいでvol,25

『古の街』

「こちらは、50年物の紹興酒になります。」

 濃い飴色の液体が、小さなテイスティング用のグラスに注がれてゆく。目の前には30年物・40年物・50年物の紹興酒がそれぞれ置いてある。その小さなグラスに5人の輝いた目が移り込んでいた。

「あのぉ、もう飲んでいいんですか?」

 ワンとOそれに、シーは注がれている間食い入るような目線を、工場の支配人とグラスに向けており、「早く飲ませてくれ」という心の声が駄々洩れだった。

「え、えぇ。どうぞ」

 ぼくとフェイは、タジタジになった支配人に同情の念を送りつつ、グラスを手に取った。

「干杯!(乾杯)」

 中国では、乾杯の音頭ののち、すぐさまグラスを空にしなくてはならない。通常こうした、テイスティングの場で一気に飲み干すなんてことはしないのだが、ゴーサインが出てしまった以上誰にも止めることはできない。

 フワッと熱いものが口膣を通り抜けてゆく、お酒というより、まろやかな薬といったところだろうか。口当たりはとても柔らかい。雨の中、工場を歩き通してきたぼくらの冷えたからだには驚くほど美味しかった。

 「兄弟。サカズキを交わそう。」

 日本の文化をはき違えているらしいワンが、Oと手を交差させてテイスティングのおかわりを要求しだしている。シーは勝手にグラスへ酒を注いでいる。フェイはお酒が入ると直ぐに眠ってしまう性質らしい。西湖でもそうだったが、顔を俯かせて舟をこいでいる。もう無駄だといった顔で支配人が出てゆくと、ぼくらの酒宴はバスの時刻まで続いた。 

 来た道をそのまま引き返すと、翌日の新聞の一面に、「泥酔した日中大学生、文化遺産の水路に転落」なんて記事が載りかねないので、工場から、最寄りの駅までタクシーを二台呼び、別れて乗った。ワンとOは直ぐに心地よさそうな寝息を立て始める。はしゃぎ疲れた遠足帰りの子供みたいだと笑みがこぼれる。

 日の落ちた紹興の街並みは、古の街を想起させる。街灯は少なかったが、夜空に浮かぶまあるい月が、建築物に影を落としている。月が急に消えた。訝しげに空を見ていると、再び顔を出す。白い霧のような雲の上に、黒い雨雲が浮かび、層のようになっていた。

 魯迅の生家が再び目に入る。篭絡していった彼の家は、遠目に見ると、荒れ果てた城のように見えることに、気づく。人の一生と、時の流れを考えた。この家のように、ときが経つにつれて、人の中身もがらんどうになってしまうのだろうか。彼らとの暖かい思いでも、やがては風化してなくなってしまうのだろうか。それは嫌だなと思う。

 ハッと息を吞むほど綺麗だった西湖も、寂寞を感じさせる紹興の街並みも、あの裏庭も、フェイのころころと変わる感情豊かな顔も、全て忘れたくはないと、月に願う。

 遠ざかる紹興の街並みは、やがて暗闇に飲まれていった。(中国・浙江省のおもいでvol,25『古の街』)


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