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【小説】中国・浙江省のおもいでvol,32

『淡い黄色』

  掃除機がけたたましい音を立てて、ベッドの周りを行ったり来たりする音で目を覚ました。時刻は朝の八時。また清掃のボタンをつけたままにしてしまったのだ。

 一緒のホテルに泊まるOに、「起きたらおばちゃんが部屋にいるので困る」と相談したところ、「それはお前が清掃ボタンを切っておかないからだ」といった話をしてから数日のことだった。

 仕方なく、階下の食堂で朝食を取ることにした。エレベーターの前には他国の留学生や、一般の利用客でごった返していた。ホテル周辺は、大学と学生街のほかには、商店と一体になっている年季の入った住宅が並んでいるのみだ。少し離れれば工業地帯となっている。赴任先の父親の元へと遊びにきたのだろうか。

「部屋番号と食事券を」

 眠気を隠さず、けだるそうに呼びかけてきたホテルマンに案内され、席に着く。今日は中国に来てから初めての、何もない日なのだ。

 クロワッサンにクリームバター。きのことブロッコリーの和え物に、湯気を立てているマントウ。カラフルに着色された小籠包に味付けのジャンを添えた。熱いコーヒーに容器から汗をかき、キンキンに冷えている牛乳を加える。奥にフルーツケーキを見つけて取りに行こうとしたが、既に余分なスペースのないお盆をみて大人しく席につくことにした。

 二回程おかわりのため、席を立った。その度に、給仕の従業員がテーブルを片付けようとするので、その度に「まだ食べています」と言う羽目になった。

 ゆっくりと味わって食べること。それは人間が勝ち得た、輝かしい特権だと感じる。時間に追われずに取る食事は、それだけで幸せな気持ちになる。5個目のクロワッサンを半分ほど食むと笑みがこぼれる。

 普通一人客は朝のビュッフェで長居したりはしない。給仕の従業員とのやり取りも相まって、余程気になったのだろうか、お客さんの目が集まってくる。

 いたたまれない気持ちになってきたので、食堂を後にして外に出ることにした。久しぶりの太陽が浙江省を照らしてる。こんな気持ちのいい日は外で本を読むに限る。

 大学の巨大な畑の傍らにある、小さなベンチに腰を下ろした。畑から近所のこども達がの遊び声が風に運ばれてくる。ほんのり暖かい風に思わず目をつぶってしまう。そうなるともう活字は力を失い意味を持たなくなる。一人の時間に活字から離れられたのは随分と久しぶりのことだった。

 午後には部屋へ帰って、授業の予復習に取り掛かった。中国語に触れると思い出すのは、ドタバタと過ぎていった一週間だ。瞬く間に過ぎてしまったので、昨日のこともまるで遠い昔のように感じる。ちょうど流れ星が落ちていくときの軌跡のように。

 ふと窓の外を眺めると、もう天気は崩れて小雨が降りだしていた。もう数十分ほどで、霞に覆われて白くなるだろう。そんなことを考えながら窓の下を見ていると、縁が黄色のモンシロチョウが羽を休ませていた。畑の隅に生えていた菜の花によく似た淡い黄色は、ぼくを少しだけ悲しい気持ちにさせた。(中国・浙江省のおもいでvol,32『淡い黄色』)


 

  

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