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中国・浙江省のおもいでvol.26

 『嵐の香り』

 「漢字って日本にもあるでしょう?日本と中国の漢字はどう違うの?」

 隣に座っているショーパン(カザフスタンからの留学生)が、ぼくのノートを見て興味津々といった感じで質問してくる。

 「漢字はもともと中国から来たんだよ。日本人の使う漢字は、中国の昔の漢字をそのまま使ったり、ちょっと変えたりしてる。けど今の中国語の漢字は簡体字と言って、それはぼくら日本人にとっても意味と形が一致するまでは難しいんだ。」

 英語で喋られるとぼくはいつも困ってしまう。中国語より先に英語を学べよと誰かが突っ込んだのが、今になってじわじわと響いてきた。

 英語で投げかけられる質問に対して、仕方なしに、中国語を駆使して返す。英語と中国語でのコミュニケーションは今思えば、あべこべでよく話ができていたなと不思議な感慨を覚える。

 「それじゃあ、この漢字にはどういう意味があるの?」

 授業の合間の休憩は、いつのまにか彼女と話すようになっている。そして、彼女はとても真面目なのだ。メモを取ったり、意味を調べたりしながら時々目線を合わせて言葉を交わす。

 「see you tomorrow」

 ゆるやかなウェーブをひらりとさせて彼女の姿が遠ざかってゆく。中国へ来て1週間も経つと、時間の流れは加速され、授業の時間はもっとあっという間に終わった。紹興の寂寞とした街並みがまだ頭に残っているのだろうか、帰って来てからもずっとふわふわとした感覚でいた。

 ショーパンともっと話したかった。将来のこと、いま興味のあること。カザフスタンという、似たような名前の多い未知の国について。もちろん、彼女自身のことも。できれば、西湖や紹興の景観もはなしたかった。とても純粋に。

 ぼくは人との距離の取り方が苦手だ。例によって、年齢すら聞いておらず(日本人らしさだとぼくは高を括っている)、彼女との距離を近くするのに、何をすればいいのか皆目見当がつかない。しかし、彼女の真剣な表情には、心惹かれる何かがあった。

 留学はモラトリウムの良き過ごし方として、利用されることは多い。すべての留学が、将来に直接繋がるという高尚な類の物ではないのだ。それでも、彼女の見ている場所は、どこか、ここではない遠くを思わせるのだ。

✒✒✒✒

 考えながら歩き、考えながらお昼を食べ、ぼくはいつのまにか合同授業の教室にいた。Oは1度部屋に帰ると言い、手持ち無沙汰なぼくは教室で課題をすることにした。しかし、頭に浮かんでくるのはショーパンの真剣な目つきばかりだ。

 「早いじゃない」

 ザオの髪色は、紫からピンクに変わっている。「何か考え事ごと?」そう聞かれて我に帰る。今日が約束の日だったことを思い出す。

 「ザオこそ・・。髪色、遠くからでも君とすぐわかるよ」

 革ジャンにジーパン。中のシャツはグレーで、黒いブーツは彼女の強気な性格をそのまま表した格好に思えた。気合が入っている・・。紺のワイシャツにクリーム色のスキニーパンツといういつもの格好のぼくは、彼女に申し訳なくなってくる。

 「O君、OKだしてくれた?」

 「もちろんだよ。中国でカラオケするなんて思ってもなかったみたいだけど。」

 彼女は満足そうな笑みを浮かべて、席につく。Oも教室に入って来て、ぼくは、彼女に彼を紹介した。初対面でもOは物おじせず、すぐに打ち解けることができる。爽やかで、春風をそのまま連れてきてしまったかのような笑顔に、大抵の女の子はやられてしまう。それもお酒が入るまでであることを黙っておくのもお約束だ。

 「それじゃあ授業が終わったら」

 華やかな香水の香りが一瞬、鼻を突っつく。ザオのものか、Oのものか分からないその香りは、やがてやってくる、夜の嵐を想像させた。(『中国・浙江省のおもいでvol,26『嵐の香り』)




 

 

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