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顆粒だしを使うことへの罪悪感は手間なのか、味なのか

「恥ずかしながら、顆粒だしの素を使っています」とおっしゃる方が、時々いらっしゃいます。

私は0歳からのお子さんとその保護者の方向けに、お料理と食育の教室を主宰しています。
ですから、生徒さんはほぼお子さんのいらっしゃる方なので、小さなお子さんを育てながら一生懸命家事や仕事をなさっている頑張り屋さんが多いのですが、そういう方ほど、冒頭のようなことをおっしゃいます。

なぜ顆粒だしの素を使うことに罪悪感を感じるのか

冒頭のセリフは、

本当は使わない方が好ましいけれど、(色々な理由で)使っています。

という事だと思われます。

私自身も、結婚前までは顆粒だしの素を当たり前のように使っていましたし、それが悪いこと、もしくはなんとなく後ろめたさを感じる事だとは全く思っていませんでした。

ですが、今はそうおっしゃる方のお気持ちが理解出来ます。

なぜ理解出来るようになったのでしょうか?

それは、子供が出来たからです。
人生の折返し地点にさしかかった自分はどうあれ、「これからこの世界の様々に包まれ、戦い、生きていかねばならない我が子に、少しでも良い食事を与えたい」と考える保護者が多いからでは無いかと思います。

多くの顆粒だしの素には、一般に化学調味料と呼ばれるアミノ酸調味料や塩分、時には糖分までも含まれています。ですから手軽に美味しいお料理が作れるのですが、それらが乳幼児の身体にどのような影響があるか不安になり、使わなくなった方も、子供が成長するに従い、また使い始めるようになる傾向(生徒さん達のお話を伺う中での実感ですが)があるようです。

手間をかけることが愛情であるという幻想

インターネット界隈や昭和の価値観の中では、手間をかける=愛情を注ぐと思い込んでいる人が一定数いるようです。
この考えには同意しかねますし、実生活でこういう考えの人達から直接的に指摘をされる確率はあまり高く無いと思います。

なのに、なぜか後ろめたさを感じる方が多いのかと言うと、1つは自治体の主催する離乳食教室の影響ではないかと考えています。

子供が生まれて半年ほども経つと、離乳食を始めるようにと、母子手帳や育児書、インターネットの育児サイトなど、そこここに書いてあります。
私の教室でも離乳食教室を開催していますが、多くの方は自治体の開催する無料の離乳食教室に参加して離乳食について学びます。私も例に漏れず、参加しました。

そうすると、自治体から依頼を受けた管理栄養士さんが

子供の味覚は鋭敏なので、調味料ではなく出汁を効かせた薄味を心がけましょう。
塩や油は消化器官に負担をかけるので、なるべく使わず出汁を効かせましょう。

大筋でこのような事を言われます。(言われました。)フムフム、と右も左もわからない保護者の方は熱心にメモをとり、実践します。

そして、ここで言う「出汁」とは「鰹と昆布の合わせ出汁」である事がほとんどで、離乳食教室の際には、同時に「出汁の取り方」も教えてくれます。そして、かなり口を酸っぱく「出汁を効かせて」「出汁を効かせる」「出汁を」「出汁で」「出汁」「だし」「ダシ」…と言われます。

初めてのことだらけで赤ちゃんのお世話だけでも手一杯なのに、離乳食には手間暇かけて「鰹と昆布の合わせ出汁」を使いましょう、そう言われるわけです。まだまだ夜間の授乳や夜泣きもあって寝不足なのに。それこそが、子供にしてあげられる愛情たっぷりの最初の食事です、と言わんばかりに。

顆粒だしの素は、鰹と昆布で出汁を引くよりも、パラっと入れるだけなので時短だし、手間もかかりません。

このような背景があり、顆粒だしを使う事を「お恥ずかしい」と思う方が増えたのではないかと考えています。育児書や育児サイトの離乳食レシピなども同様です。
(相手が私のような「食育」を謳う人間だったから、と言う事も1つの要因としてはあるかと思われます。)

美味しさの要素

たしかに、顆粒だしの素を使うと、鰹と昆布で出汁を引くよりも少ない手間(スプーン一杯をパラっと入れる)だけでそれなりに美味しいおみそ汁や煮物が出来ます。

ほとんどの顆粒だしの素には、前述のアミノ酸調味料が入っているので美味しさを感じます。旨味の素であるグルタミン酸ナトリウムを池田菊苗が発見して以来、美味しいものには、その素となる何かしらかの旨味成分が入っていることになっています。

ただし、美味しさを感じる要素は、旨味だけではありません。見た目や香りもさることなから、刺激である「辛味」が強いものを美味しいと感じる人もいますし、「甘味」があって美味しい、と言う言葉も良く聞きます。

つまり、旨味だけが美味しさの要素ではないのですね。旨味が多ければ美味しいのであれば、究極に美味しいものは味の素やハイミー、と言うことになってしまいます。
私は子供の頃、味の素を入れると美味しくなるから、「なめたら絶対美味しいはず!!」との確信のもと味の素をなめたことがおりますが、なんとも言えない不快感で口をゆすいで水をガブガブ飲んだ記憶があります。何事も過ぎたるは及ばざるが如し、ですね。

話が少し逸れました。

顆粒だしの素を使う方のほとんどは、多分、コンソメの素と鶏がらスープの素も常備しているのではないでしょうか?
和食には和風だしの素、洋食にはコンソメ、中華には鶏がらスープ、と使い分けているのでしょう。私もそうでした。間違いのない味に仕上がるからです。

ところが、離乳食のために鰹と昆布で出汁を引くようになって、顆粒だしの素と決別してしばらくすると、何だか味の感じ方が変化していきました。

子供達も大きくなってきた事だし、そろそろパラッとしてもいいんじゃないかと思い、また使おうと思ったら、なんだか舌に変なクセが残るのです。今思えば、味の素を舐めた時のあの感じです。美味しいと評判の出汁パックも、舌に何だか引っかかるのです。どうやらアミノ酸調味料の旨味が合わなくなって来たようなのです。
もちろん、ごく少量だけならわからない場合もありますが、どうも舌にぺったりした感触が残る気がするのです。それ以来、パラっと入れるだけのだしやスープの素を常備しないでお料理を作るようになりました。

この、舌に残るぺったりした感触と言うか、入れるとだいたい同じような味になるところが罪悪感の原因になっているのではないでしょうか?

パラっと入れるだけで、本来その野菜や魚や肉に含まれないような旨味も入ってしまうから、素材の味を活かす事に相反する気がするのかも知れません。

罪悪感や後ろめたさを引き寄せるものの正体は?

手間をかけないことへの後ろめたさなのか、素材本来の旨味ではない美味しさへの罪悪感なのか?

果たしてどちらなのか、はたまたその両方なのか?

きっと、知識として(より良いと思われることを)知ってはいるのに、出来ていない自分への自責の念から来るのだと思います。

罪悪感や後ろめたさを感じる必要は無い

しかし、声を大にして言いたいのは、鰹と昆布の合わせ出汁は、そもそもお店で出す料理の味を一定に保つために使われるようになったものなので(諸説あります)、家庭で毎日の食事に使えなくても(使わなくても)当たり前だと言うことなのです。

鰹と昆布の出汁はハレ(祝い事などの非日常)の料理に使うもの。
ケ(日常)の料理にはなくてもいいものです。(もちろん、あっても良いのですが)

ハレとケのメリハリを付ける事と、いわゆる鰹と昆布の出汁以外の出汁や素材本来の旨味を活かす調理方法を知っていれば、離乳食でも幼児食でも、困る事なく楽しく食事が出来るのです。

以前から言っていますが、家庭料理は一定の味ではなくブレがあるから良いのです。
赤ちゃんの頃から、お店の味で育てる必要は無いと思いませんか?

試作のための食材費や、子供達が使いやすい調理器具の購入に使わせて頂きます!