見出し画像

書店とコロナ禍(2020年既出)


初めまして。ご挨拶がてらにこの一文をご紹介。これは同人誌「文人墨客」第六号(2020年秋号)に掲載されたコロナ奮闘記の拙文です。発表と同時に然る直木賞作家がブログで取り上げてくださいました。銀座で働く書店人の生の声です。

(以下原文)


はじめに

 書店には今、烈風が吹き荒れている。
 書店員のみならず、お客様として本屋に出入りしているあなたならこんなことは当然肌身に感じているかもしれない。かつて2万店を優に超えていた全国の書店の数は数年前には1万店を切り、売り場面積も売り上げ総数も年々減少している。書店業界はいわゆる斜陽産業だ。そして私はあたかもその沈みかけた船の一角で、怒涛のように入ってくる水をバケツで掻き出す船員の一人のようなものなのだ。こんな書き出しをしなければならないほど、元来私の属している書店業界に景気の良い話はない。理由はいくつもあるが、それを詳しく書き連ねるのが本稿の目的ではないのでやや割愛する。むしろ、2020年が明けて早々、新型コロナウイルス禍がにわかに起こり、書店業界にも様々な化学反応が起きた。そのことをつぶさに見ている現場の声を書いてみたい。

書店界の神様降臨

 全てを語る前に、まずは私の勤める書店の紹介を少ししておく必要があるかもしれない。
私の勤める「教文館」という書店名を聞いて、もしピンとくる人がいたらその人は相当な業界通である。当店は1885年創業以来「銀座の本屋さん」として、日本一地価の高い銀座四丁目交差点地区の一角に店を構えている。先代社長の中村義治氏(2004年没)は日本書店商業組合の副会長を20年来務め「書店界の神様」と呼ばれた人物で、中近東を放浪して帰国した私を面白がって採用してくれたのはこの人だ。

 様々なエピソードを残して伝説のようになっているが、例えばこんな話がある。中村氏は夜でも閉店後の入り口に座りながら、雑誌を中心に屋台のようにして本を売り続けていた。そこに銀座の夜の店で酔っ払った某有名出版社社長らが通りがかり、自社の雑誌を凍えながら売る中村氏の姿を見て青ざめた。酔いは瞬時に吹っ飛び、全身脂汗を流しながら深々と中村氏にお辞儀し挨拶を交わした、というものだ。中村氏は「世の中の動きは、銀座の夜を観察していればよくわかる」と何度も言っていた。彼のもとで教文館は単店舗経営でありながら、有名系列店に交じっていつも書店売り上げ全国ランキングの上位に名を連ね、並み居る出版社に一目も二目も置かれた。1990年代の後半、書店の店頭で本や雑誌が飛ぶように売れていた古き良き時代の最後の時期だった。

本が売れなくなった時代に

 あれから20年余り、ネット書店の台頭やモバイル端末の普及により店頭で雑誌は売れなくなった。文字もの(ざっくりとマンガや雑誌に対して小説などの単行本をこのように業界では呼んでいる)は店での販売が強いといわれていたが、これも怪しくなってきている。  
 昨年より私はキリスト教専門書を扱うフロアの店長に就任している。キリスト教書を含む人文書、こういった専門書は本来不況に強い商材といわれてきていたが、時代の趨勢には抗えず、これも売り上げは緩やかな減少の一途をたどっている。それでもネットショップの運営や、扱う商材の多角化などの努力により当店はなんとか利益を出していた。何より先代社長の「中村イズム」とでも呼ぶべき通好みの、当店の書店気質を好んでくださるお客様に守られてきたことが大きい。

新型コロナウイルス襲来!

 今年の1月後半になって、新型コロナウイルス感染症の話題が少しづつ、しかし衝撃的に騒がれるようになった。2月、3月とこの伝染病の猛威が報道されるにつれて、私のお店には目に見えて人が来なくなった。それはそうだろう。病気のクラスター発生源は「銀座の夜の街」とマスコミがしきりに報道していた。おそらく報道内容は本当であったし、まだ病気の詳細が分かっていなかった時期である。近づいただけで感染して死に至る流行り病があるのなら、そんな物騒な場所に出入りするバカはいない。特に高齢者の致死率が高いという。年齢層の高い「大人の」お客様が多い当店の被害は甚大だった。お客様はもちろんのこと、店員にも動揺が広がっていった。

 この間、それでも私たちは営業努力を続けていた。書店に併設している催事スペースは、ことごとく原画展などのイベントをキャンセルとした。とにかく人を集客することができない、してはいけない。店内の換気をし、3時間おきに手すりや買い物かごの消毒、店員はマスクの着用を義務付けた。営業時間も短縮営業にして、社員もお客様も電車の混雑時を避けることができるように配慮した。

緊急事態宣言発令!!

 しかしそんな努力は一気に吹っ飛んだ。4月7日、緊急事態宣言が東京に発令されたからだ。休業要請が出されたのは、主にナイトクラブやライブハウス、劇場などだ。細かく分類されたそれらの業種の中に本屋は含まれていなかったが、臨時の営業会議を社内で開き、その場で休業を決めた。

 理由はシンプルで、従業員の生命を守るためだ。宣言が解除されるまでほとんどすべての従業員を自宅待機としたが、書店の流通が止まっているわけではない。そこで、少数の担当者が交代で日々入荷してくる書籍の箱を荷開けし、吟味し、委託期限がきたものを返品した。お客様の目に触れることのない商品を、ただ機械的に伝票処理をするためだけに、右から左へ捌く、むなしいルーティンワークを繰り返す日々が始まった。本を愛する私たちにとっては本当に苦痛でしかなかった。このような作業は営業再開を決めた5月下旬まで続き、その後もしばらくは同様の状況だった。営業再開後も警戒して遠のいている客足がしばらくはもどらなかったためだ。

 緊急事態宣言直後は「巣ごもり需要」と称して、住宅街近郊に位置する書店を中心に子どもの学習書やドリル、シリーズ物の小説などを中心として特需に沸いたらしい。しかし、銀座に店を構える当店は、そもそもそれ以前の問題、つまりお客様がほとんど来店して下さらない状況だったこともあり、この特需とは無縁であった。唯一、細々と続けていたオンラインショップが200%以上の売り上げを記録したが、実店舗の売り上げをカバーできるほどではなかった。むしろ少数のネット通販担当者が孤軍奮闘することとなり、過労で体調を崩す者が出るに及んでこの業務も一旦は完全にストップしてしまった。

四面楚歌・・で窮鼠覚醒

 「四面楚歌」の故事をこの期に及んで実体験するとは。まさに打つ手なしである。しかし、社内では多くの自問自答がなされた。教文館はどうあったらいいのか、お客様とどう向き合っていくのか。先代の中村社長なら本の屋台を引いて巡回販売をしたかもしれない。自分たちにできることは何なのか―――。本来こんな問いは営利企業ならば常に行われていることなのかもしれないが、「老舗」の「書店」では思考のフットワークは鈍かったのだ。おかげで社内の空気は大変風通しがよくなった。セクト主義の壁がなくなり、全社挙げて何かを生み出そうという気風が生まれつつある。売り上げは大幅に減少した状態が続いているが、見える部分以上に従業員の奮闘は「奮っている」。危機に瀕した時の反作用という特性を、人間は本能的に備えているのだろう。

 具体的には店頭のポップは、気の利いた手書きのものが増えた。まるで大喜利状態だ。催事もオンラインでの参加が可能な「アバターシステム」を導入したりしている。ロボットが催事会場内を遠隔操作で動き回り、課金で参加するシステムだ。全部署がオンライン販売の過程に関与し、無駄を最小限にする社内のロジスティック思考も刷新された。かなり思い切った改革が、意外とすんなり通るのは新型コロナウイルス感染症の功罪の「功」の部分と言っていいだろう。

聖書に記録された疫病奮闘記

 コロナウイルスに対峙しながら、昨今、私はキリスト教徒として、聖書から一つの霊感を汲んでいる。旧約聖書にサムエル記(下)という巻物がある。古のイスラエルの統治者ダビデ王の事績と信仰を記したその最後の24章には疫病が起こった記事が書いてある。

 ダビデ王は自国の勢力を誇りたいがために人口調査と称して全国の徴兵可能な男子を数え上げる。しかしこのことは、人間の軍事力ではなく神威によっての国家統治を望んだ神の怒りを買い、その罰として3日間の疫病を課される。たった3日の疫病のはずが、死者は7万人にも及び、全国の被害は甚大となった。人格神ヤアヴェはさすがにこの害悪を悔い、手を下している「災いの天使」に命じてこれを止めようとされるが、神にもこれを止めることができなかった。結末はどうなったかというと、災いの天使が居座っていた「農夫アラウナの麦打ち場」にダビデ王が祭壇を建て、燔祭の動物を捧げるとやっと災いがとどまったと記されている。

疫病奮闘記(解)

 さてここは学者の間でも諸説入り乱れる難解な箇所だが、一つ歴史的事実としてはっきりしていることがある。この「農夫アラウナの麦打ち場」こそ、現在のエルサレムの宗教的中心地、旧市街の岩のドーム(イスラム教の寺院)の場所なのだ。聖地中の聖地としてキリスト教、ユダヤ教、イスラム教の三大宗教が常に熱い視線をおくるホットスポット、そしてこの場所ゆえにヤアヴェの宗教は2千年も生き延びたのである。

 神とか天使とか、宗教を信じない人にとっては荒唐無稽な物語に思えるこのエピソードだが、これは社会情勢が動いていく裏に、人間の精神的な「意思」の部分が大きく作用していることを示唆した物語だ。大きな疫病が流行っても、軍事力(ハード)よりも神威(ソフト)を国の基礎としようと結論づけた人間の意思(ここでは信仰)の力。そして結果的に祈りによって疫病を克服した記念碑的な場所を、古代ユダヤ人は民族で最も崇高な聖所として守り続けている。これがユダヤ人の存在意義として現在もそのアイデンティティの中核を形成している(もちろんイスラエルは軍事力も並外れているが)。

 「『信仰』という強い人間の意思が疫病という困難も克服してきた、宗教とはその記念碑である」と聖書が主張しているとするならば、その意思を継承している現代人である我々にも困難を克服する力はある。良き未来も悪しき未来もいずれも我々の手の内にあり、新型コロナウイルスの手の内にはないのだ。

終わりに

新型コロナウイルスは、もしかして現在進行形で書店業の息の根を止めつつあるかもしれない。この先はどうなっていくのか、おそらくどんなに腕利きの経営コンサルタントでさえ見通しは困難であろう。急激な社会変化に翻弄される書店業界だが、すべての見える現象、それが政治的であろうが経済的であろうが、その因果を司る大きな部分が人間の意思の為せる業であることを改めて認識することと致したい。そのなかで我々は何を選択し、どのような意思を持ち続けるべきなのか。日々書店業に励みながら自問する日々である。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?