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我々の愛は、尊いものでは決してない。

僕達は漠然とした「幸福になりたい」という願望を抱き、それに支配されているだろう。
だが、何よりも僕達はまず自分自身の負のカルマをすべて自分の苦しみのなかで清算しなくてはならない。
自分が与えた他者の苦しみを、自分のものとして経験しなくてはならない。
他者には当然、人間だけではなく動物達も含まれる。
僕達はあまりにも利己的だったので無数の動物達が地獄の底で死んでいった。
明日も明後日も、十年後も百年後も千年後も、動物達が殺され続ける世界ならば、僕達も何度輪廻転生しようとも同じ苦痛の中に死にゆく。
何処かで「大虐殺があった。」と言われ、現場まで行こうと誘われ、あなたは観に行く。
するとそこには無数の動物達の死体で埋め尽くされている。
あなたは「ああ、なんだ動物か。」と言って帰って来るだろうか?
昨日は一体、何匹虐殺されたか。今日は、明日はどうだろう?
言えることは、僕達の意識が変わらない限り、彼らは拷問に遭い続け、何の罪の報いかも知らぬうちに視界が遠ざかり、堪え難い苦痛のなか、息絶える。
僕達は自分たちの罪があまりにも重く、苦しい為、「わたしも動物だ」と言いたくなるかもしれない。
だが神はあなたに、「あなたは人間である」と言い、動物であれば許されることも僕達に許されないことを示してくれるだろう。
動物ならば…我々が動物ならば…何が許されるだろうか。
何故、動物ならば責任はないと言えるのだろう?
もっとも、聖書が言及する「獣」には「獣」としての責任があるのである。
僕達は、自分達の事を「人間」だと言う。
そして人間であるから、動物を好き勝手に扱っても良いのだと考えている。
だから、大多数の人達は毎日行われ続けている残酷な動物実験や屠殺に無関心だ。
だから動物たちの声がどれほど悲痛なものであろうとも、僕達の耳には届かない。
届きようがあるのだろうか?
僕達は動物達は殺されても仕方のない存在であると見做している。
もしそうではないと想うならば、何故、彼らが大量に虐殺され続けるこの世界に黙って過ごしているのか?
彼らは、一体我々に何をしたのだろうか?
どんな重苦しい負のカルマの清算の為に、あのように悲惨な死を遂げているのだろうか?
我々は幸福になりたいと切実に願っているのにもかかわらず、そこらかしこに虐殺された死体が散らばり転がっている世界に生きている。
そしてそれらに対し、「ああ、なんだ、動物の死体か。」と言っている。
自分の食卓の上に載ったものに対しては「ああ、これは動物の死体に過ぎない。」とは言わない。
それはとてもとても不快で、我々にとって考えたくもないものだからだ。
これが、わたしたちの未来の姿だと、一体、だれが考えたいだろうか?
勿論、すべての悲惨な死が、我々の動物達に対する行いの報いだとは言えない。
誰かは確かにその行為をもって人を殺したし、我々の多くが、意識のなかで、また、想念形体(エレメンタル)によって、知らず知らずのうちに人を殺してきたのだ。
何故、幸福になりたいと願いながら、殺し続けることをやめる気がないのだろうか?
これは、一つの答えがある。
我々は決して、幸福になりたいわけではないのだ。
しかし我々は苦痛を避けたがり、幸福を求めつづけている…。
我々は「どうか堪えられないことが起きませんように。」と祈りつづけている。
彼らにそれを強いつづけながら。
彼らは何の責任があって、それを強いられつづけているのだろう?
愛情深い動物達が母と子を無理やり引き離され、子は母を想い、母は子を想い、泣いているが、我々に殺され、切り分けられて焼かれるか、煮込まれるかして、食卓の上に上がる。
彼らの愛情は我々にとって、何一つ尊いものではないのだろうか?
では我々の愛もまた、尊いものとは言えないだろう。
それを殺す我々は、それを虚しい死体にして悦ぶ我々は、我々の愛は、尊いものではない。
我々の愛は、尊いものでは決してない。
偉大でもなければ、かけがえのないものでもない。
我々の愛は、我々の愛が、それを行ってきたもの、それを行い、そして形を変えさせたもの、つまり、我々の愛は、それと同等である。
すなわち、それは我々の食卓の上に載せられたものである。
我々の愛とは、我々の食卓の上に載せられたもの、それそのものである。
そして我々はそれを消費して、その結果、寒々しさと虚しさを自分のものとして得ることができて、それらは彼らから勝ち取ってきたのだ。
また彼らのすべてを自分の血肉にしてきた為、彼らの殺される寸前の意識を自分のなかでどうすることもできずに、我々はまさしく彼らが味わった意識のなか自分自身に対する悲憤に満ち満ちて、自分を真っ先に破壊し尽くそうと必死になっている。
彼らは何一つ、我々を恨んだり、憎んだりしてはいなくとも、その意識は結局、我々の中で消化され、我々に見合った我々自身のその経験から得た意識によって、我々は確かに、生かされて来た。
我々は生かされて来た。
我々はその報復に満ち満ちた「殺された」、また「殺される」という意識に、我々は生かされて来た。
我々は報復の時を、今か今かと、待っている。
「殺されたくはない」「死にたくはない」という想いのなか、未だ殺しつづけながら。
僕達に、未来はあると言えるだろうか?
未来はある。
家畜たちや動物実験のために閉じ込められている動物達に未来があるのと同じに。
我々に、未来はある。
そう、だれもがいつかは、あの場所へと送られる。
あの場所に行くと、生きては戻って来れない。
拷問の果てに、冷たい刃物が、我々の喉や腹に当てられる。
この話には、まだ続きがある。
僕達は幸福になりたいという自然な欲求があるのかもしれないが、僕達がすべての自分自身の負のカルマを清算した後も、それを叶えることはきっとできないだろう。
何故ならそのとき、僕達は本当に深い愛にあって、他者の罪を自分を犠牲にして贖おうとするからだ。
まさしく、イエスの死にざまだ。
そして無限にあると言っていい他者のカルマを清算し終える日は、果していつなのか?
僕達は「幸福」という、いつ叶うかわからないその幻想を追い求めて、今まで、そして今の今、確かに「生きている」と言えるだろう。

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