文明をこわさない為、真に文明をこわす文明に、僕らは生きている

またまた「無痛文明論」を読んでいて、想ったことである。

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5「無痛文明」への進化

無痛文明においては、苦しみやつらさというものは、われわれがみずから選びとることのできる選択肢としてのみ存在する。
そこではどうしようもない苦しみに襲われるということはない。
苦しみは、つねに、文明の基盤をこわさない程度にまで薄められた「刺激」「趣味」として、社会の側から選択肢として提示されるのである。
無痛文明とは、「本物の苦しみやつらさ」を「選択肢としての苦しみやつらさ」へと果てしなく内部化していく運動のことである。


僕はこれを読んで、もしかすると、現代の文明を支えているのは、”いちばん”に、”畜産業”なのかもしれない。と想った。

それはなんでかというと、典型的な『文明の基盤をこわさない程度にまで薄められた「刺激」「趣味」として』の『苦しみやつらさ』として、僕が真っ先に浮かんだのが、こういった作品だったからです。

映画「ブタがいた教室」ネタバレあらすじ結末と感想

僕は以前にこの映画を観たはずだが、ほとんど記憶にない。

観終わったあとに、「なんでやねん…」という、理解不能の苦しみと悲しみに堪えきれなくて、記憶をみずから抹消したのかも知れない。

まず、なんで、どの先生にも親(教える立場)のなかにも、また、生徒のなかのだれひとりのなかにも、「動物を殺して食べなくても人間は生きてゆけるはず」「それを自分の身体で証明してみせよう」という選択肢が、一度も出てこなかったのだろう?

なぜ、「殺さなくてはならない」という選択肢以外、出せなかったのか。

まるで、だれもこのブタさんを引き継いで育ててくれる人はいなかったから、「仕方がなく」、食肉センターへ送る(屠殺する)以外の選択肢はなかったのだ…という感じで映画は終る。

でもそれは違うだろう。このブタさんを、何がなんでも、”生かそう”、”生きてほしい”、”生かさなくてはならない存在である”とは、だれひとり想っていなかったからではないか。

だからこのような作品が、典型的な『文明の基盤をこわさない程度にまで薄められた「刺激」「趣味」として』の、「選択肢としての苦しみやつらさ」として、僕は真っ先に浮かんでしまった。

「本物の苦しみやつらさ」ではなくて、「選択肢としての苦しみやつらさ」は、『文明の基盤をこわさない程度にまで薄められた「刺激」「趣味」として』のみ、存在していると「無痛文明論」を書いた森岡正博氏は言うが、本当にその通りではないだろうか。

今この文明が壊れることが嫌で、人々は「本物の苦しみやつらさ」を経験することを、避けている。

・人間は、動物の肉や、乳や卵を食べなくとも健康に生きてゆける。
・むしろ、それらを食べないほうが、健康に生きてゆける。
・家畜はみな、肉質を落とさない為に、生きたまま解体されている。
・”Money”の問題で、家畜たちは醜悪な場所で虐待的に育てられている。
・世界で莫大な利益を上げ続ける畜産業によって、世界は壊滅的な水不足と飢餓と第六の大量絶滅へと向かっている。
・必要ではなかったのに、わたしたちはそれを選択して生きてきた。

僕は、これらを知ってしまうことは、一つの「本物の苦しみやつらさ」であると自分自身の経験によって、知っている。

だが人々は、この「本物の苦しみやつらさ」を避け、その代わりに、”文明の基盤をこわさない程度にまで薄められた”「刺激」「趣味(嗜好)」として、「選択肢としての苦しみやつらさ」を選択をしつづける結果、文明は、真にこわれるという皮肉的なこの現実(文明)に、僕たちは生きている。

”この文明”は、”こわすための”、”こわされる為の”、文明であり、真に”こわれる”まで、この文明はつづいてゆくだろう。

真にこわれるそのときにやっと、僕たちのすべてが、「本物の苦しみやつらさ」を経験するのだろうか。


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