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笑いに関する名言集――喜劇とは何か

 世に名言集は大量に生まれては消えていっているわけです。それこそ、特定のジャンルに絞った名言集も多いわけですけれども、笑いに関する名言集がもうビックリするくらいないんです。そこで、「ないなら作ればいいや」の精神でこうやって作っているわけです。

 ここでは笑いの名言を以下のみっつのどれかに当てはまるものとしました。

・笑いに関係する言葉が入っている名言
・笑いに関係する仕事をした人の名言
・笑う余地がある名言

 今回は喜劇に関する名言をいくつかご紹介いたします。

 喜劇は現代日本ではどちらかと言うと馴染みが薄い笑いという印象があります。それは、お笑い芸人が一因だと勝手に思っています。

 昨今、お笑い芸人は芸能界で「天下を取った状態」ではないかとの意見を、多少は聞いてきました。多少とは言え、そんな意見を聞くのは相当なことです。冗談でもなかなかそんなこと言われない。

 確かに考えてみれば、現在のお笑い芸人は様々なメディアに数多く進出しています。本業のお笑いだけではございません。情報番組の司会、雑誌のモデル、ドラマの役者。監督として映画を撮ったり、小説を書いてヒットさせたり、ドラマの脚本を担当したりと、活躍の場は広がっている。

 芸能界ですら、そうなんです。お笑い業界では、より一層そうでしょう。お笑い芸人はお笑いをする職業のひとつであり、かつては他のお笑い職業と同じか、それより小さい一団だったようです。

 それは肩書に現れているのではないかと考えられます。例えば、ザ・ドリフターズの面々は「コメディアン」と言われることが多いです。「お笑い芸人」ではない。藤山寛美さんや森繫久彌さんは「喜劇役者」「喜劇俳優」と呼ばれていた。このように、笑いを誘う仕事はいろいろあるはずなんですが、現在はお笑い芸人が他を圧倒しています。今でもコメディアンや喜劇役者はいらっしゃるんですけれども、数が段違いなんです。

 喜劇に対する馴染みの薄さは、このような状況が大きく影響していると思われます。何なら西洋由来の、ちょっと格調高い笑いみたいに思ってしまっている私がいます。コントとどこが違うのか分からないけれども、なんか違う気がする。

 では喜劇とは何なんでしょう。幸い、偉人の名言には「喜劇」という言葉の入った名言がいくつかございます。

 まず多いのが、悲劇との対比に触れている名言です。悲喜劇の歴史は古いせいか、ソクラテスまで言及しています。

真の悲劇詩人は、同時にまた真の喜劇作家なり。
ソクラテス(B.C.470-B.C.399)、プラトン「饗宴」

世界名言辞典(明治書院、1966)

 ソクラテスは古代ギリシアの哲学者であり、西洋哲学の基礎を築いた人物のひとりとされる、哲学界のビッグネームでございます。

 「喜劇と悲劇は互いに対極な位置にあると思われがちですけれども、意外と近いんだよね」ということなんだと思います。しかし、なんで近いのか、どう近いのか、この名言では何も語られていません。

 ちなみに、ソクラテスは似たような名言も残しています。

懐疑は無限の探求にほかならず。真の悲劇家は真の喜劇家なり。
ソクラテス(B.C.470-B.C.399)

世界名言辞典(明治書院、1966)

 先ほどの名言よりも具体性が増しています。しかし、この名言、先ほどの名言と同じ本に収録されているんです。これはどういうつもりなのでしょうか。似てるけど言ってることは違うから載せておけということなんでしょうか。よく分かりません。

 懐疑が無限の探求だと、どうして真の悲劇家は真の喜劇家になるのかも難しいところです。ただ、ソクラテスから2000年ほど経ち、その名言のヒントになるかのような、具体的な名言を残す方が現れました。ウォルポールです。

世の中は考えるひとたちにとっては喜劇であり、感じるひとたちにとっては悲劇である。
ホレス・ウォルポール(1717-1797)、「ホレース・マンへの書簡 1768,12,30」

世界名言辞典(明治書院、1966)

 ウォルポールはイギリスの政治家、小説家でございまして、ゴシック小説「オトラント城奇譚」などを残しています。第4代オーフォード伯爵としても知られます。いわゆる貴族ですね。「セレンディピティ」という言葉を作った方でもあるようです。

 小説家であるためか、ソクラテスよりも踏み込んだ表現となっています。ただ、内容自体はなかなか考えさせられます。同じ世の中でも、考える人によって喜劇であり、感じる人にとっては悲劇である。

 正解があるものでもないんでしょうけれども、いろんな物事は調べて考えるほど面白く、興味深いものが出てくるものです。一見すると不幸でしかないものでもそうなんです。そういうことを言っているのかなと私は勝手に考えました。つまり、悲劇的なものでもつきつめて考えていくと悲劇っぽさがなくなっていく。ソクラテスの言う「無限の探求」は、考え尽くすと悲劇なのか喜劇なのか分からなくなる、ということなのかもしれません。違うかもしれませんが。

 もっと最近の人で、違った視点から悲喜劇を比較した言葉がございます。

人生はクローズアップでみると悲劇だが、ロングショットでみると喜劇だ。
チャールズ・チャップリン(1889-1977)

明日が変わる座右の言葉全書(青春出版社、2013)

 ご存じ喜劇王チャップリンでございます。

 チャップリンは役者から脚本、作曲、監督、プロデューサーに至るまで、様々な形で映画制作に関わってきました。そんな映画人らしい視点の名言でございます。対象との距離によって喜劇か悲劇か違ってくるというのです。

 この見方はウォルポールより分かりやすいように思います。派手に転ぶと、転んだ本人は痛いし恥ずかしいし服は汚れるし、いいことは全然ないように思ってしまいますけれども、少し離れたところから見ると笑わずにはいられない、すごく面白い転び方をしているのが分かったりするわけです。

 転んだ本人だけではないでしょう。隣にいた友人だったとすると、まず転んだ本人を心配するはずです。転んだ本人ほどではありませんが、不幸に違いない。でも、遠くにいる人は無関係ゆえに笑うことに抵抗がなくなる。しかも、面白い転び方が目に見えているわけです。笑うなというほうが難しい場合も普通にあるでしょう。

 チャップリンの喜劇に触れた名言は他にもあります。例えば、これです。

私の扮装のちょびヒゲ、それは虚栄のシンボルであり、きっと上着とダブダブのズボンは、人間の奇妙さ・愚かしさの戯画である。そして寒竹のステッキは、予期もしなかったが、好運にも喜劇的効果をつくり出すのに役立った。
チャールズ・チャップリン(1889-1977)、「小さな男」

世界名言大辞典 新装版(明治書院、2018)

 チャップリンは喜劇王と呼ばれるほどの人間ですから、緻密な計算によって観客の笑いを誘っていたはずです。しかし、そんな人間でも、思いもよらぬ笑いを生み出したことがある。そう語ってるように見受けられます。

 つまり、チャップリンのステッキは結果的に面白くなってしまったわけで、今で言うなら「天然」に入ると思われます。そして、そんな天然も活用していた。喜劇王の笑いに対する貪欲さが垣間見えます。

 喜劇役者について触れた名言もございます。

喜劇でいちばんむずかしい役は愚かな役であり、その役を演ずる役者は馬鹿ではない。
ミゲル・デ・セルバンテス(1547-1616)、「ドン・キホーテ」

世界名言辞典(明治書院、1966)

 セルバンテスはスペインの小説家でございまして、代表作「ドン・キホーテ」でその名を広く知られています。

 「お笑いって実は難しいんすよ」的な主張でもかなりの古参と言っていいのではないでしょうか。笑わせる演技の難しさは当時から知られていたものと考えられます。チャップリンの名言なんか見ていても、それが何となく分かる方もいらっしゃるでしょう。あんまりアホでは、あんな名言は出てこない。

 ただ、世の中には自分で計算して笑わることは難しくても、やたらと面白い天然を発動させる奇跡の人類が少数ながらいらっしゃいまして、いわゆる猛獣使い的なポジションの方がその天然をうまく操ることによって生み出す笑いもあるかとは存じます。

 最後はバルザックの名言です。

人生――人間の喜劇。
オノレ・ド・バルザック(1799-1850)

世界名言辞典(明治書院、1966)

 バルザックは19世紀フランスの小説家であり、フランス文学史に必ず登場する人物でございます。

 この名言はバルザックの小説の全般的なタイトルとも言うべき言葉でございます。なんかやたらポジティブな印象を受ける言葉でございますけれども、バルザックは90篇の作品からなる小説群「人間喜劇」でも知られておりまして、そんな彼だからこそ至った境地なのかもしれません。

 バルザックは人生をロングショットで眺めながら、とにかく考え抜いたのかもしれませんね。

◆ 今回の名言が載っていた書籍


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