見出し画像

キャラ漫才をないがしろにはできない

 ここではお笑いについていろいろ書いておりますが、個人的には極端な話、笑えればなんでもいいスタンスでして、それこそお笑い芸人である必要性も特には感じておりません。そんな感じなので、あれが〇〇漫才だとか、これが××芸だとか、言葉は何となく使ってはいますが、細かい定義なんかは気にしていませんでした。

 しかし、いざお笑い用語の意味を調べてみると、あまりにも定義がぼんやりしているのに驚きました。言う人がそれぞれ自分なりの意味でしゃべっていて、それで全然何とかなっている。言葉の不思議さを痛感します。

 そんな中で「キャラ漫才」という言葉は比較的、定義が明確なように見えます。コンビのどちらか、または両方が何らかのキャラクターになりきってする漫才です。代表的なところではオードリーがそれにあたります。ボケの春日さんはあの悠々としたキャラクターでよく知られており、ネタ中でもそのキャラクターをうまく活用しています。

 個人的な印象ですが、「キャラ漫才」は普通の漫才に比べて、ちょっとだけ扱いが悪い気がするんです。そう思い始めたのは、それこそオードリーがM-1グランプリで準優勝し、売れっ子への階段を駆け上がった頃でした。「キャラ漫才はM-1で勝てない」みたいな噂が、お笑い界の間で駆け巡ったという話を聞いたんです。結局、噂は噂に過ぎず、オードリーは敗者復活戦から決勝に返り咲き、準優勝を決めたわけです。気になって検索してみたら、NON STYLEの石田さんが「審査員をしている作家から飲みの席でそんな話を聞いた」みたいな感じで噂が回ってきたようです。

 キャラ漫才はダメなのでしょうか。不利な点はあると思います。分かりやすい点としては、キャラクターを決めた途端にネタの方向性が制限される、というものがあります。例えば、ボケが妖怪ぬらりひょんのキャラで漫才をするとなると、どうしたってボケがぬらりひょんに引っ張られるわけです。もちろん、ぬらりひょんが漫才をしているという可笑しさはあるんですが、その可笑しさはぬらりひょんに慣れてしまうとだんだん厳しくなる危険性がある。ただ、どんな手法だって利点と欠点があります。それを理解して、どううまく使うかが大切なんじゃないかと思うわけです。

 そもそも、仮に審査員が「キャラ漫才は落とそう」と決めたところで、ひとつの難問が立ちはだかります。「どこまでがキャラ漫才なのか」。これです。

 もちろん、ぬらりひょんと人間の漫才みたいなキャラ漫才ど真ん中のタイプは問題ないわけです。ややこしくなるのはキャラかキャラじゃないかの判断が微妙な、ボーダーライン周辺の漫才です。

 例えば、ネタの時だけやたらと明るく話す人や、ネタの時だけやたらと暗く話す人がいます。これはキャラなのでしょうか。キャラと言えばキャラでしょうが、「自分はもともと明るい(暗い)人間で、それをネタ中はちょっと大げさにやっている」と反論されてしまうと、判断が難しくなってきます。

 そうなると、主流とされる漫才も危うくなってきます。ネタ中にコントへ入る漫才を俗に「コント漫才」と呼ばれます。「俺、コンビニの店員やるから、お前は客やってね」ってやつですね。そのコントであくの強いキャラクターを演じたら、それはキャラ漫才とは言えないのか。

 コントに入らない「しゃべくり漫才」だってキャラの要素はゼロじゃありません。例えば、相手を理詰めで追い込むようなネタの場合、その理詰めで追い込む人はそのネタ独自のキャラクターとは言えないでしょうか。怒鳴りながら相方を叩いてツッコむ人だって、日常的にそんなことをする人ではないでしょう。すると、ネタ中に怒鳴って叩くのはそういうキャラクターと言う余地があるのではないか。

 と、あれこれ突き詰めていくと、定義が明確だと思われていたキャラ漫才もどんどん輪郭がぼやけていってしまうんです。「キャラ漫才を落とそう」なんて企んだ暁には、そのぼやけた輪郭のどこにボーダーラインを引くかで頭を悩ます羽目になってしまう。

 だから、キャラ漫才だけをどうこうしようという審査は今後もしないと思うんですよね。もし、敢えてボーダーラインを引くような審査をする人がいたら、どういう風に境界線を作るのか私はものすごく興味があります。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?