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自虐ネタはなぜよく使われるのか

 自分をおとしめることで笑いを取る「自虐ネタ」というものがあります。手法としては王道で、お笑い芸人の話を聞いていると本人が自虐ネタと言っていないだけで内容はしっかり自虐ネタなんてことが非常によくあります。気をつけて聞いてみると、あんな酷い目に遭ったとか、こんな腹立つことがあったとか、その手の話のオンパレードです。

 自虐ネタはどうしてこんなに使われるのか。私は最初、反感を買いづらい話題だからだと思っていました。相手の反感を買っていては笑ってくれるわけがありません。その点、自虐ネタは誰かをいじるわけでも、誰かからいじられるわけでもない。自分で自分をいじっていますから、その分、反感は買いづらいでしょう。また、自分の話をするにしたって、自慢ではないんです。誰かのマウントを取る話ではない。この点も反感を買いづらくなっているとは思います。

 しかし、よく考えると、世の中には「自虐風自慢」というものが存在するわけです。これは、自虐をしているようで実は自慢している行為を指します。もちろん、意図して自虐の皮をかぶった自慢をしている場合もあれば、無意識にそうなってしまった人もいるとは思います。ただし、いずれにしろ自虐でありながら「自慢」という言葉がくっついている点からもお分かりの通り、例え「自虐ネタ」だったとしても反感を買う可能性が高い。「自宅でハンマー投げをしていたら1000万円のマイカーにクリティカルヒットさせてしまった」とネタにしたところで、「車の値段は言わなくていいだろ」とムッとされてしまう危険があるんです。

 それに、反感を買いづらい話なら別に自虐ネタでなくてもいいわけです。我が子の可愛い言い間違いとか、ペットの変わった特徴とか、そういうほんわかした話でウケを狙ってもいいはずなんです。でも、これだけコンプラコンプラ言ってる世の中で、その手の話が自虐ネタに取って代わる気配は今のところありません。どういうことなんでしょうか。

 ヒントとなる名言を、19世紀ロシアを代表する小説家であるレフ・トルストイが残しています。代表作「アンナ・カレーニナ」の書き出し、「すべての幸せな家庭は似ている。不幸な家庭は、それぞれ異なる理由で不幸である」がそれです。つまり、幸福に比べて不幸は多彩である。

 では、どうして幸福より不幸のほうが多彩なんでしょうか。軽く検索したら、分かりやすい解説をしているページがございました。

 幸福にはいくつもの条件があるんです。例えば、充分な資金があるとか、心身ともに健康であるとか、人間関係に恵まれているとか、そういうものが全部そろえば幸福だとする。言い換えると、条件に当てはまらないものがひとつでもあれば不幸とされるんです。すると、幸福は条件が全てそろった状態である1パターンなのに対し、不幸は充分な資金がないとか、心身ともに病気たっぷりとか、人間関係がグチャグチャとか、いくつものパターンが出てくる。

 幸福より不幸のほうが多彩だから、自虐ネタはよく使われるという一面があるのだと思いました。多彩であるということは、人それぞれの独自性が出しやすく、それゆえにいくら参入者が来ようともネタかぶりをしづらい。だから、見聞きする側が飽きない。すなわち、ウケやすいんです。それに比べて幸福な話は種類が乏しく、どれだけオリジナリティを出そうにもどこかで聞いた話になりやすい。これはもう聞く側としては退屈しがちですから、ウケも取りづらくなります。笑いを取りたい人には手を出しづらい話題でしょう。

 幸福の条件がいくつあるのかは分かりませんが、条件があればあるほど幸福の種類は減り、不幸が多彩になっていきます。自分が笑いを取りたい立場だったとして、幸福な話と不幸な話、どちらでウケを狙おうとするかは自ずと決まってくるでしょう。当然の帰結として不幸な話で笑いを取る、すなわち自虐ネタがよく使われるようになったのだと考えられます。

 不幸は多彩だからネタにされやすい。それは自虐ネタに限った話ではありません。例えば、どなたかの訃報を聞いたりですとか、既に亡くなられた方の人生を振り返ったりする際、印象的だった出来事をいくつかピックアップし、それを線で結ぶように説明する手法がよく用いられます。ひとりの人生の代表作、それの見本市みたいな感じですね。

 人間、亡くなった方をあまり悪く言わない傾向にありますけれども、人生の代表作の中にネガティブなものが入ってくるのは珍しい話ではありません。客観的な事実としてそのネガティブなものが故人の中で非常に大きな出来事であり、それが故人に強い影響を与えたとしても、場合によっては意地悪でネガティブなものを人生の見本市に並べているように見えてくるものです。実際に意地悪で並べている可能性もあるでしょうが、不幸の多彩さも理由になっているかもしれないと思うようになりました。

 その昔、大島渚さんという映画監督がいらっしゃいました。「戦場のメリークリスマス」などの作品で知られ、一時はテレビにもよく出演されていました。

 私は映画に詳しくないにも関わらず、大島さんが映画監督だということは知っていましたから、著名な映画監督だったんだろうなとは思うんです。ただし、やっぱり詳しくないんで、大島さんの偉大さについては今もうまく説明できません。言い換えれば、私が大島さんについて知っていることは「有名な映画監督である」だけでもう大半を占めており、いい印象も悪い印象も特に抱いていない。

 そんな私でも、大島さんでまず思い浮かぶ場面は、小説家である野坂昭如さんとの殴り合うところなんです。人生の代表作として相応しいと言い切れない場面であることは百も承知ですが、でも真っ先に思い浮かべてしまうんです。

 ただし、よく考えれば野坂さんとの殴り合いが印象深くなるのは、当たり前だと思うんです。映画を撮る映画監督はたくさんいらっしゃいますけれども、カメラの前で小説家と殴り合う映画監督はまずいません。そういう意味では独自性があるわけで、見た人の印象に残るのは自然の成り行きだと思われます。

 どうせ印象強くなるならネタにしてしまおう。自虐ネタとはそんなしたたかな戦略によって出来上がった手法なのかもしれません。今回は以上となります。ここまで読んでくださり、ありがとうございました。

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