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妖怪に見る発想の袋小路

 全て捏造かどうかは分かりませんが、妖怪も想像力によってできた部分は大きいと思うんです。「こういうやつがいたら面白いんじゃないか」という完全捏造パターンから、「いや、ぼんやりとしか見えなかったけどあれは確かに妖怪だった」と言って他の何かを妖怪に仕立て上げる一部捏造パターン、実在するものを妖怪に仕立て上げちゃうまさかの捏造ほぼゼロパターンまで、いろんな形があるとは思います。ただ、そこに何らかの想像力が入っている点は同じでしょう。

 想像力という点から妖怪を考えると、どういう発想のもとに作られたのか、何となく分類っぽいことができたりします。多いのはもともとあったものにちょっと手を加えたタイプです。手を加えられたものは身近なものが中心で、その典型が人間です。

 手の加え方についてはいろいろあります。例えば、何かを増やすパターン。

『絵本百物語』より「二口女」

 何気に髪の毛にも能力が付随してますね。ちなみに画像はウィキペディアに載っていた著作権フリーのものを拝借しています。

 逆に何かを減らすパターンもあります。

『夭怪着到牒』に登場する「一つ目小僧」

 もっとグッといろいろ変えちゃうパターンもありまして、鬼がその典型でしょう。角も牙も生え、顔つきも全体的にいかつくなって、何なら肌の色もすごいことになったりします。

『雪山童子図』に登場する「鬼」

 もちろん、動物も妖怪のモチーフとして人気だったようで、尻尾をバンバン増やした九尾の狐なんかはその典型でしょう。

歌川国芳の浮世絵に登場する「九尾の狐」

 いろんな生物を組み合わせた、いわゆるキメラのパターンは洋の東西を問わずよく用いられる発想法のようで、当然ながら妖怪でも存在します。

『百怪図巻』に登場する「牛鬼」

 牛鬼は伝承によって外見が異なっておりますが、その名の通り身体のどこかが牛になっているのは共通しています。この牛鬼は頭が牛で身体はクモというパターンです。

 何かモデルがあるのかもしれないけど、何だかよく分からないという、想像力多めの妖怪もいます。

『化物づくし』より「はいら」(「わいら」とも)

 謎の自然現象をそのまま妖怪にしてしまう場合もありまして、鬼火なんかがその典型です。

『和漢三才図会』に登場する「鬼火」

 とにかくデカいというパターンも洋の東西を問わず人気です。

『絵本百物語』より「赤ゑいの魚」(「赤えい」とも)

 すごいことになってますけど、これは魚のようです。

 とまあ、いろんな発想を画像付きで触れて参りましたけれども、妖怪もたくさんいると「何だこれ」と誰しもがツッコみたくものもいるわけです。

 例えば、俳人として有名な与謝蕪村は画家としても知られ、「蕪村妖怪絵巻」なる作品も残しております。そして、その中に問題児がいるんです。

『蕪村妖怪絵巻』より「京都帷子が辻のぬっぽり坊主」

 あるべきところに目がなく、なぜかお尻にある。誰が見てもどこがおかしいのかハッキリと分かるため、軽く調べるといろんなところでネタにされており、海外の掲示板でもいじられるというワールドワイドなユーモアを誇っております。

 発想としてはもともとあったものに手を加えたパターンではありますが、顔がのっぺらぼうの代わりに目が尻にあるという、現代日本だったら「小学生か」と言われそうな外見の妖怪です。でも、「こういう時あるよなあ」とも思うんです。いろいろ考えすぎて発想が訳が分からないところへ着地する。深夜の意味不明なハイテンションの中で思いついたようなやつですね。

 妖怪の外見からいろんな発想が見て取れるわけですが、中には尻にだけ目がある妖怪のように、なんかこう発想の袋小路にハマってしまったようなものもあるのだと思うと、なんか昔の人もあんまり変わらないんだなと、あきれつつも共感してしまう自分がいます。

 与謝蕪村と言えば日本文学を語る上で避けて通れないレベルのビッグネームなんですが、何しろ日本文学に疎い私にはこの尻目君が与謝蕪村の代表作になりそうです。というか、そっちの方が面白いからそうしてしまう可能性が極めて高いです。ごめんね蕪村。

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