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漫才は定義されない

 M-1グランプリ2020で優勝したマヂカルラブリーのネタが議論を呼んだのは、お笑いが好きな人なら多かれ少なかれ聞いた話でしょう。俗に「漫才論争」と称される一連の議論は「マヂカルラブリーのネタは漫才か否か」というただ1点に絞られます。

 漫才論争における当事者のひとり、マヂカルラブリーの野田クリスタルさんは漫才かどうかの境界線を引くことで世間に答えました。

 詳しいことは上記リンク先に書かれていますが、かなり具体的で詳細な分類になっております。この辺のところは野田さんにお任せするとして、ここではもう少し別の点から漫才論争を取り扱ってみます。

 漫才論争に発展したのは前出の通りマヂカルラブリーのネタではありますが、火種となるものはM-1設立当初から存在していたとも考えられます。それは、M-1グランプリで唯一明文化されている審査基準「とにかくおもしろい漫才」です。

 もちろん、M-1は漫才の大会なんだから当たり前でしょ、という話なんですが、審査基準として明文化されているがゆえに、漫才じゃないとなると基準に反した審査をしたことになる。そうなれば、問題は大きくなりかねない。

 初期のM-1ならばまだよかったと思います。参加者はもちろん、大会運営側も手探りの状況ですから、いろんなネタを試す余地があり、決勝の舞台にテツandトモが出て弾き語りをするなんて現象も起きました。しかし、年を経るごとに参加者はM-1を前提としたネタを作るようになってゆき、テレビ局は戦いに挑む者たちをドラマチックに放送するようになりました。真剣味が増したと言えますが、それゆえにちょっとした不備から大きな騒ぎへと発展するようにもなりました。審査員の重圧云々が取り上げられるようになったのも比較的最近になってからだと記憶しています。

 世の流れだから仕方がない部分もあります。ただ、漫才とは何か、大会側が定義するのは非常に難しい。

 例えば、前出の野田クリスタル式漫才境界線です。野田さんは具体的な例で漫才とそれ以外に分類していってますが、感じのボーダー付近になると表現がぼんやりしており、結局、正確な意味での線引きができていません。「この辺りにボーダーがあるっぽい」程度にとどまっています。また、「ルール違反」とされる項目でも「特別事項」という名の例外が設けられていて、これまたボーダーラインを引くのに難儀されている印象です。

 仮にこのような詳細な審査基準を大会側が出すと参加者側は大騒ぎになるでしょう。あれはいいのか、これはダメなのか、大会に問い合わせが殺到する可能性が高い。更なるもめごとも起きるでしょう。例えば、審査基準に「小道具は減点対象」なんて盛り込んだ途端、なぜあれは小道具に入るのか、そもそもなぜ小道具がダメなのか、などの論争が巻き起こりかねません。それを乗り越えたところで、大会側は毎年のように審査基準の問題点を洗い出したのち、基準の改訂をしなければならなくなる。そして、参加者は新しい基準に対応してゆかなければならない。審査基準を「とにかくおもしろい漫才」でとどめておいたほうが、手間が少ない分だけまだマシに思えます。

 「とにかくおもしろい漫才」にとどめておく利点としてもうひとつ重要な点があります。それに関連してNON STYLEの石田さんはWebの記事でこんなことをおっしゃっています。

 M-1が登場してから漫才の変化のスピードが急激に速まった。これが漫才だって定義してしまったら、あっという間についていけなくなっちゃいますよ。

出典:https://number.bunshun.jp/articles/-/842222?page=2

 記事は2020年1月のものですが、状況は現在と変わっていないと思います。定義した途端に、その定義からはみ出すような漫才が出てきてしまう。だったら、漫才の境界線を明確に決めず、何なら逆に敢えてぼんやりさせることによって定義をちょっと広めにとっておけば、新しい漫才が出てきてもカバーできるんじゃないでしょうか。「変なのが出てきたけど、これも『とにかくおもしろい漫才』でいいだろう」としてしまうやり方です。適当と言えば適当ですが、それゆえにうまく回る面も大きい。だから大会運営側もこの審査基準を崩さないんじゃないかと考えてしまうほどです。

 ただ、ふと思いました。漫才の定義を世に出てるものより広めにとっておくとどうなるのか。もちろん、実際に起きてみないと分からないんですが、似たようなもので軽く予想くらいはできます。

 マルセル・デュシャンという美術家がいます。20世紀の美術に最も影響を与えた人物のひとりであり、彼の作品は現代美術の先駆けとも言われる、要するに超有名人です。

 彼の作品としてよく知られたものに「泉」というものがあります。

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マルセル・デュシャン作 「泉」

 小便器に署名をして、それを作品として出品したわけです。今では、この手の一見すると、いや二度見しても三度見しても訳の分からないものがむしろアートみたいな雰囲気がありますが、当時は違います。というか、これがその手のアートの始祖とも言われる勢いです。だから、デュシャンの作品「泉」は出品が拒否され、最後には行方不明となってしまいました。当時の美術の定義を超えすぎて、理解が追いつかなかったものと考えられます。当然、議論を呼びに呼びまくったようです。その辺の詳しい事情は勉強不足のため分かりません。ただ、今や「そういう訳の分からんものだってアートですよ」という考え方は、私のような一般人だって何となく察していることからも、デュシャンの影響のデカさが推測できます。

 もちろん、その手の美術はネタにもされています。「これは一体何なのか、タイトルも含めて全部分からない」ですとか「なんでこんなガラクタが高値で売れるんだ」ですとか、今日もどこかでそんないじりがされている。ただ、ネタにされるってことは世の中に根付いていることでもあります。そんな感じで美術は美術なりに問題を抱えつつも、現在まで続いているわけです。

 繰り返しになりますが、漫才が今後どうなるのかは分かりません。M-1グランプリ2021のランジャタイはまだ人類が理解できるネタだった、と審査員が驚愕するレベルの漫才師が決勝の舞台によじ登ってくるかもしれない。じゃあ、漫才自体がふたりの人間が暴れまわるよく分からないものになるかというと、そうとも言い切れないでしょう。現代でも伝統的な風景画や彫刻が制作されているのと同様に、オズワルドやミキのような分かりやすい形式を重視した漫才をする組もまた出続けるでしょうから。

 今回は以上になります。ここまで読んでくださり、ありがとうございました。

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