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漫才・コントと落語、オリジナルとアレンジ

 人々が密集していても特に何も言われなかった頃、某大学のお笑いサークルが開催しているお笑いライブを見に行っていました。ちなみに私、その大学とは何の関係もありません。客観的に見て結構な不審者だと思います。ですが、学生の方々はいつも優しく迎えてくれました。

 学生とは言え、お笑いライブですることはプロと同じです。ネタをやったり大喜利をやったりその他の企画をやったりと、ライブ自体は手作りながらキチンとされていました。セミプロと言ってもいいかもしれない。

 それでもです。実力と言うのはどうしてもハッキリ出てしまいます。多くの場合は圧倒的少数の優秀な人たちと、圧倒的多数のそうでもない人たちに分かれてしまう。実際、そのサークルでも「これはプロでもいけるんじゃないか」と思える人は上位数人だけであり、残りは良くも悪くも普通の大学生でした。

 某お笑いサークルに所属していた男子大学生、仮に相田さんとしておきますけれども、彼もまた圧倒的多数の普通に属する学生芸人でした。日々努力はしているようで、年を追うごとにうまくなっているんです。ひとりの人間として見れば「真面目に頑張ってるんだな」とは思うんですけれども、サークルのエースは相田さんよりも常に面白い。もう確実に差があると言わざるを得ないんです。

 最も深刻な差は独自性でした。オリジナリティというやつですね。面白いエース級の方々だって時に粗削りですし、すべることもあるんですけれども、自分なりの強みを見つけ、それを自分独自の武器にして笑いを取っている。それに対して相田さんのネタや平場の立ち振る舞いはどこかで見たようなものばかりなんです。場合によっては「あの芸人のあのネタじゃないか」と分かるくらいだったりする。

 もちろん、アマチュアなのでそんな指摘は野暮なのかもしれません。しかし、実力という物差しで見ると、やはりどうしても差が気になってしまう。誰かがやったネタでスマートに笑いを取るよりも、多少失敗しようと自分独自のお笑いを探してみたほうが長期的には面白い芸人になるのではないかと、他人事ながら思ったりしたものです。端的に申し上げて「余計なお世話」というやつです。

 ちなみに、そのお笑いサークルの演者たちの多くは、伝統的に同じ大学の落語研究会と掛け持ち、いわゆる「兼サー」をしていました。学生芸人としてお笑いの舞台に立つ一方、学生落語家として寄席に出るわけですね。大学祭にもなると、漫才やコントをしたあと、同じ日に落語をするなんて過密スケジュールをこなす人もいるようです。

 相田さんもまた兼サーをしていた演者のひとりでした。彼もまた文化祭シーズンになると両サークルの準備に奔走し、文化祭当日は過密スケジュールをこなしていました。

 ある年の文化祭で私はお笑いサークルのライブと落語研究会の寄席を往復して楽しむという、これまた無駄な過密スケジュールをこなしていました。その当時、相田さんは大学4年生で、大学生活最後の大学祭でした。相当力が入っていたのか、お笑いも落語もバリバリやっていました。そのお陰か、私はどちらのネタも見ることができました。

 まずはお笑いです。漫才もコントも精力的におこない、相変わらず普通の範囲内ではありましたし、やっぱりどこかで見たようなネタではありましたが、彼なりに成長してきたことがうかがえます。相田さんはそこそこのウケを得てネタをやりきりました。

 ライブが終わると私、今度は落語研究会の寄席へ向かいました。すると、さっきまで漫才をしていた相田さんが今度は落語家として登場します。しかもこの日の大トリでした。演目は私の知らない噺でしたが、あとで調べたら割と最近に作られた落語だったようです。

 相田さんの落語を見るのはこの時が初めてでした。落語も一生懸命やってくれるんだろうなとは思いつつも、お笑いライブを見ていた手前、正直あんまり期待していませんでした。だからなおさらビックリしました。漫才やコントに比べて、遥かにちゃんとしていたんです。10分くらいの噺で、笑うところは笑わせ、泣くところは泣かせる。大トリに選ばれたことはあります。つまり、相田さんは落語研究会の中ではエース級だったということです。

 相田さんはお笑い芸人では普通だったのに、落語家としてはエースでした。この差は何なのでしょうか。

 落語は古典を中心に確固たる台本があり、話の大筋は決まっています。それを自分なりに咀嚼して披露するのが落語の伝統的なスタイルです。一方、お笑い芸人がやる漫才やコントは原則として自分で1から作り上げなければなりません。ストーリーの構成からセリフ、演出に至るまで自分たちで決める必要がある。つまり、落語で重視されるのがアレンジならば、お笑いで重視されるのはオリジナルとなります。もちろん、お笑いのネタだって原材料は世の中に溢れているものばかりでしょうが、それらをかき集めて作り上げるというスタイルは落語と異なります。新作落語を創る場合も1から作り上げる形にはなりますが、話がややこしくなるのでここでは割愛します。

 相田さんが漫才やコントよりも落語が得意だったのは、1からオリジナルの作品を創るよりも、もともと存在していた作品をアレンジするほうが得意だったのかもしれません。オリジナルとアレンジを比べると、どうしても0から1を創るオリジナルが重視されがちではありますけれども、もともとあったものをより良く、より人々に受け入れられるようなものに創る能力もオリジナルの能力に負けず劣らず大切なものです。実際、相田さんはアレンジが評価されて落語研究会で大トリにまでなった。

 世の中にはオリジナルとアレンジがあり、それぞれ求められるものがきっと違うんでしょう。だから相田さんのように、漫才やコントは普通でも落語になると才能が認められるという現象が起きる。相田さんは大学を卒業後、お笑いや落語のプロにはならず、普通に就職されたようですが、私にとってはオリジナルとアレンジについて考えさせられるいいきっかけとなりました。

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