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宿題でふざけた人間が初めて天下人に共感する

 学生時代は宿題が本当に嫌だったんです。やらずに溜め込むなんてしばしばで、当然ながら先生に怒られ、罰として追加の宿題が出されたりしていました。

 普通の量でもやらないのに、増やしたらもっとやらないと思うんですが、「このままやらなかったら、そのうち学校で強制的に居残りさせてでもやらせる」との最後通告を受け、せっかくの遊ぶ予定を潰して泣く泣く漢字の書き取りをやりました。その数、1万字。ちょっとした短編小説並です。これだけの量、同じ文字を繰り返し書き取るんです。控えめに言って軽い拷問です。

 ちなみに、クラスには私と同じくらい宿題をしない子が5人くらいいまして、やっぱり数万字程度の書き取りノルマを溜め込んでいました。他にも数千字から数百字程度のノルマを持つ子が10人くらいいました。今から考えると、教師側にも問題がありそうな感じですけれども、とにかく懲罰的なことをやりまくった結果、先生はいろんな子の書き取りを大量にチェックする羽目になったんです。短編小説から掌編小説くらいの書き取りをいくつも確認するわけですね。ちょっとしたアンソロジーです。

 私は朝早くから夜遅くまで書き取りをやりました。でも、やりたくない作業を延々繰り返すのは精神に大きな負担がかかります。そのうち、書き取り帳をビリビリに破いて燃やしたくなる衝動が5分に1回のペースで訪れるようになってきました。しかし、そんなことをしたら私は学校に監禁され、宿題を終えるまで帰れませんゲームをやらされる羽目になる。書き取り帳を灰にするのだけは防がねばなりません。

 私は妥協案として、たまに適当な字を混ぜることにしました。「弱肉強食」とか「一期一会」みたいな四字熟語の中に「敵前逃亡」とか「心筋梗塞」みたいな、書き取りにはありえない単語を半笑いで混ぜ込んだんです。そのためだけに国語辞典を活用した念の入れようです。どうせ先生は大量の書き取りをいちいちチェックせず、パッと見て文字が埋まってればOKを出すんだろうと予想しての狼藉でございます。

 かくして私の予想は当たり、書き取りを提出した私は監禁を回避した上、何のお咎めもありませんでした。

 こんなこともありました。夏休み最後の週、すなわち不真面目な学生は血の涙を流しながら溜め込んだ宿題を処理する時期であります。もちろん、私もちゃんと血の涙を流した学生のひとりです。

 夏休みをフルに使ってじっくりやる量の宿題なんて、ラスト1週間でササッとできるわけがありません。当然、様々な手を使ってピンチを切り抜けます。既に宿題を終わらせた真面目な友達に写させてもらうのも、ピンチを切り抜ける手段のひとつでした。

 真面目な友達から借りたのは、英語の長文翻訳でした。それこそ短編小説くらいの長さの英文を翻訳し、それをノートに書いて提出する。ノート丸々1冊使い切る一大事業です。

 友達から宿題を借りた私が次にやるべきは、和訳を機械的に書き写す作業でございます。これを昼も夜もやる。この作業がまた、迫り来る締め切りのプレッシャーと相まって、激しく発狂したくなるんです。しかし、友達の宿題を灰燼かいじんに帰すわけにはいきません。大変な作業だからこそ、どうにかガス抜きをしたいと考えました。

 過酷な宿題中のガス抜きと言えば、私には成功体験がございました。そうです、適当な言葉をねじ込むんです。

 英語の先生は忙しいんです。1クラス40人分の長文和訳、しかも内容が全部大体一緒の文章をいちいち読むわけがないと考えたんです。早速、中盤辺りで適当な文章を書きまくりました。桃太郎かと思ったらいきなり浦島太郎の文章になったり、何なら普通にギャグとか下ネタとか書いてた気がします。

 こちらも私の予想は当たりまして、無事に宿題を提出できた上、先生からは何のお咎めもありませんでした。つまり、2連勝したわけです。

 さて、話は急に現在に移ります。ただいま、東京国立博物館では「法然と極楽浄土」という特別展をやっております。

 法然とは昔の有名なお坊さんでございまして、浄土宗の開祖と言われております。

 特別展には浄土宗ゆかりのものが集められておりまして、中には徳川家康が書いた「日課念仏」というものがございます。晩年の家康が滅罪、つまり懺悔や善行をすることで己の罪を消すため、「南無阿弥陀仏」と何度も何度も書いたものなんだそうです。

 個人差こそあれ、人は晩年になりますと、どうしても亡くなってからのことが気になってきます。もし極楽と地獄があるならば、やっぱり極楽に行きたい。そのために、駆け込みでもいいから懺悔や善行をやりまくっておきたいと思うのは自然な流れです。

 特に、家康のように戦乱の世から天下人にのし上がった場合、仕方がない部分も大いにあったとは言え、多くの人の命を結果的に奪ってきています。一般庶民より罪を重ねてきた自覚があったのかもしれない。そのため、日々「南無阿弥陀仏」と書き続け、己の罪と向き合っていたのでしょう。

 しかし、この「日課念仏」、歴史に詳しい方はご存じの通り、「南無阿弥陀仏」の中に「南無阿弥家康」がちょこちょこ入ってるんです。

 なぜ家康がありがたいお経の中に自分の名前をねじ込んだのかは、専門家をもってしても不明のようではありますが、私には家康の気持ちがすごくよく分かります。漢字の書き取り、和訳の書き写し。おんなじ作業を延々やってると、いくら自分に必要なこととは言え、心に来る時があるんです。もう、その辺でひと暴れしたくなるくらい、精神がやられる場合がある。

 人生の終わりが迫っている天下人の家康と、夏休みの終わりが迫ってる最低人の私が同じ心理だったかどうかは確認のしようがありませんが、「南無阿弥家康」を見た私としては「そりゃそんなことも書きたくなるよな」と一発で共感いたしました。天下人の気持ちなんて一生分からないと思っていましたが、「南無阿弥家康」に限って言えば、私は家康と一心同体です。私が閻魔様だったら、「南無阿弥家康」を見ただけで家康を極楽に招待してしまうことでしょう。

 東京国立博物館の特別展「法然と極楽浄土」は6月9日まで開催しております。宿題に苦しめられていた方、今まさに苦しんでいる方、是非とも天下人とご共感くださいませ。もちろん、ちゃんと浄土宗について学ぶこともできます。

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