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同じ額でも印象は違う

 本を読んでいたらこんな短歌が出てきました。

手をうてば 鯉は餌(え)と聞き 鳥は逃げ 女中は茶と聞く 猿沢池(さるさわのいけ)

 ネットで調べると表現の細部が異なる亜種短歌がそこそこ出てきますけれども、おおよその意味は共通しています。手を叩く音が聞こえると、鯉は餌だと思って水面付近にやってきて口をパクパクさせ、鳥は「でけえ音がしたぞ、こりゃやべえ逃げんぞ」と思う間もなく反射的に飛び立ち、お手伝いさんは「はいはい、お茶ですね。ちょっと待ってなさいな」と思ってお茶を用意する。同じ手を叩く音でも聞く相手によってとらえる意味が異なれば反応も異なると、そういう内容のようです。

 みんなそれぞれ立場も違えば価値観も違う。当然、外部からの現象に対して異なる反応をする場合がある。当たり前と言えば当たり前なんですが、それゆえに見落としやすい事実です。

 食べ物のような、誰しもが共通していそうなものに対しても同様です。みんな食べなきゃ生きていけないのは事実ですけれども、食べ物に対する好みや価値観は本当に多彩です。こだわる人は本当にとことんこだわりますし、頓着しない人はビックリするくらい無頓着です。

 私の場合は食べ物の価値観が比較的変幻自在だと勝手に思っています。1日くらいなら3食腹いっぱい食べても水だけで過ごしても全然いけますし、贅沢な食事でもそうでない食事でもおいしく食べられる。たまに「いいものを食べると普通に食事に戻れなくなる」みたいな主張を聞きますけど私の場合はそんなことありません。いつでもどこでも元に戻せます。

 じゃあ普段は何を食べているかと申しますと、朝晩はほとんど自炊でして、昼も休日は自分で作って食べることが多いです。先ほどは「暴食も断食もお任せあれ」みたいなことを書きましたけれども、基本的には適量を作って食べてます。月並みな表現ですが、腹八分目というやつです。毎日腹八分目というからには何の問題もなく日々ご飯を食べられているのに等しいです。幸いにも特別、大きく体調を損なうわけでもありませんし、大きな不満もありません。

 一方で、世の中には食べるのに困る方も当然ながらいらっしゃいます。もちろん、日本にもいらっしゃるわけで、そういう方々の悲痛な訴えがしばしばメディアを通して現代社会に問題提起してゆきます。社会保障制度は国民の安心や生活の安定を支えるセーフティーネット的な役割を果たしている性質上、問題が生じるとギリギリの生活をしている方々からの怒りや嘆きが出てきます。「こっちは1日の食費がこれしかないんだぞ!」という叫びです。

 しかし、私の普段の食費はそういう悲痛な叫びで出てくる額を大体下回っていて、いつもものすごく申し訳なく思うんです。当然ながらそういう方々は他の出費も抑えに抑えているはずで、食費が最後の砦になっている可能性が充分に考えられます。何より「鯉は餌と聞き 鳥は逃げ 女中は茶と聞く」のが世の中ですから、同じ金額でも「自分はたったこれだけの食費で我慢してると言うのに!」と憤る方がいらっしゃれば、そのニュースを見て「それだけの金額を食費に使えばいろんなもんが食べられるなあ」とアホな夢を膨らませる私のよう人間もいるわけです。そして、「怒ってる方、どうもすいません」と思うんです。何しろ怒りの根拠とされる部分を説得力ゼロにしてるんですから。

 ひもじい生活をしているつもりはないですし、友人知人からも生活困窮者だと思われていないはずなんですが、本当にどういうことなんでしょうかね。よく分かりませんが、私は今日も元気にご飯を食べてます。

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